「出世の本懐」ってなんですか?
今回は、日蓮大聖人の「出世の御本懐」について書いてみたいと思います。
「出世の本懐」と聞くと、「はて、なんだろう?」と思う方が多いですよね。
「わかった!『オレは出世できれば本望』ってことか!?」と思われたそこのあなた!・・・残念ながら、まったく違います!(笑)
「出世の本懐」とは、仏様がこの世にご出現された目的のことです。
中学や高校で歴史を学ばれた方なら、みなさん日蓮大聖人のことは知っていますよね。
しかし、日蓮大聖人の「出世の本懐」が何かをきちんと知っている方は、おそらく、ほとんどいないのではないでしょうか。
あるいは、書籍を読むなどして少し仏教をかじった方は、「フフフ、私が教えてあ・げ・る。日蓮聖人の目的はね、『法華経』を弘めることだったのよ!」などと言うかもしれませんが、それもハズレです(笑)
これは難しい言葉でいうと「権実相対」と言って、念仏・真言・禅・律等の諸経と対比して「法華経でなければいけない」と仰せられたのであって、「法華経」そのものを弘めることが目的ではないのです。
では、日蓮大聖人がこの世にご出現された目的とは、一体なんだったのでしょうか―。
浅井先生のご指導を拝してみましょう。
出世の御本懐
竜の口で久遠元初の自受用身と成り成道を遂げ給うた日蓮大聖人は、一切衆生をも仏に成さんと大慈悲を起こされ、御自身が証得されたお覚りの全体を、御本尊に図顕され、全人類に授与あそばされた。
この大御本尊こそ、弘安二年十月十二日に御所顕の本門戒壇の大御本尊であり、まさしく日蓮大聖人の出世の御本懐であられる。
ゆえに出世本懐成就御書には
「去ぬる建長五年四月二十八日に、乃至、此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年なり。仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う。其の中の大難申す計りなし、先々に申すが如し。余は二十七年なり。其の間の大難は各々かつしろしめせり」と。
この大御本尊こそ、法華経本門寿量品の文底に秘沈された大法の実体であられる。
ゆえに日寛上人は撰時抄文段に
「問う、文底深秘の大法、其の体如何。答う、即ち是れ天台未弘の大法、三大秘法の随一、本門戒壇の御本尊の御事なり」と。
さらに観心本尊抄文段には
「就中、弘安二年の本門戒壇の御本尊は究竟の中の究竟、本懐の中の本懐なり。既に是れ三大秘法の随一なり。況んや一閻浮提総体の本尊なる故なり」と。
まさしく弘安二年の本門戒壇の大御本尊こそ、大聖人の出世の御本懐、文底深秘の大法の実体、全人類成仏の根源の法体にして、広布の暁には国立戒壇に安置し奉るべき尊無過上の大御本尊であられる。
しかるに広宣流布前夜の今、池田大作一党は、あろうことか「弘安2年の御本尊は受持の対象にはしない」と公言した。これこそ極限の大謗法であり、八百万学会員を無間地獄に堕さんとする魔言である。
(平成31年の登用試験「問3」より)
いかがでしょうか。
日蓮大聖人がこの世にご出現された目的は、実に「本門戒壇の大御本尊」を建立して全人類に授与してくださることだったのです。
ですから、今の創価学会のように、恐れ多くも戒壇の大御本尊を信ぜず背き奉るならば、無間地獄の業因となります。
また、宗門(日蓮正宗)は、戒壇の大御本尊のおそば近くにありながら、日蓮大聖人の唯一の御遺命に背き、不敬の御開扉を強行しています。
そのため、たとえ大御本尊を眼前に拝するとも、大聖人の御心に背くゆえに、かえって深い罪障を積んでいるのです。これでは成仏は叶いません。(詳しくは「創価学会・宗門の御遺命違背」をご覧ください)
そこにいま、大聖人の御心のまま、出世の御本懐たる「本門戒壇の大御本尊」を信じてお題目を唱えられることが、どれほど有難いことか。
浅井先生は、次のように指導くだされています。
この大御本尊は、日興上人・日目上人・日道上人と歴代貫首上人に次第相伝され、いま富士大石寺にまします。そして広宣流布・国立戒壇建立のその日まで、一切公開せず御宝蔵に秘蔵し奉るのが、日興上人以来の堅き定めとなっている。
いま顕正会員は、この大御本尊を遥拝し奉って広宣流布に戦っている。たとえ千万里を隔てるとも
「雷門の鼓は千万里遠けれども、打ちては須臾に聞こゆ。乃至、心こそ大切に候へ」(千日尼御前御返事)と。
この仰せのごとく、恋慕の唱題は直ちにこの大御本尊に達し、渇仰の信心は直ちに大聖人の御心に通じ、以て現当二世の大利益が頂けるのである。
基礎教学書・第7章