愛媛会館御入仏式、熱涙のなか厳修
令和5年5月14日、愛媛会館御入仏式が浅井先生によって厳粛に奉修されました。
この日は雨の予報が覆ってみごとな晴天。会館建設の発表から1年5か月、御入仏式を一日千秋の思いで待ちわびた四国顕正会員は、早朝から続々と会館に馳せ参じました。
愛媛会館はJR松山駅から徒歩10分。鉄骨造2階建てで、耐震・耐火・防炎等の万全の対策が施されています。堅牢な造りでありながら清楚で気品に満ち、会館前にそびえ立つ「冨士大石寺顕正会愛媛会館」の大標識は、まるで四国広布の時の到来を告げているようです。
御入仏式の終了後には、沿道に延々数百メートルもお見送りの列が続き、感謝と決意が大拍手となって松山の空にこだましました。
今回の記事では、御入仏式における浅井先生のご指導を紹介したいと思います。
四国広布の新しい出発
冒頭、浅井先生は、次のように大号令を下さいました。
本日こそ、まさしく四国広宣流布の新しい出発であります。
私は前々から「日本の広宣流布は、東日本と西日本が相呼応して立たなければ絶対にできない」と言い続けてきましたが、今この西日本に、男子部も、女子部も、婦人部も、続々と信心つよき人材が出てきた。そして広宣流布がしんしんと進みつつあること、何より嬉しく思っております。
日興上人の御在世には、日興上人の御弟子の寂日房・日華と百貫房・日仙、さらに秋山一族が力を合せて、なんと大石寺からはるばるこの四国にまで弘通が進められていたのです。なんと凄い広宣流布の大情熱か。
まさに日興上人の御在世には、日興上人・日目上人を先頭に「広宣流布 朝夕近し」の大情熱が滾っていたのであります。
広布前夜の今、御遺命を守護し奉った顕正会こそ
「和党ども二陣三陣つづきて、迦葉・阿難にも勝れ、天台・伝教にも超えよかし」
この御本仏の大教令に応え奉らなければ何とも申しわけない。
さあ、本日の御入仏式を機に、四国の全顕正会員一結して、日本列島の中で一番槍で、いよいよ四国広宣流布を成し遂げてほしい。こう私は強く念願しておりますが、皆さん、どうでしょうか。(大拍手)
顕正新聞令和5年5月25日号
いかがでしょうか。日興上人・日目上人の御在世のごとき広宣流布の大情熱に、私も胸が熱くなりました。
恋慕渇仰こそ成仏の第一歩
次いで浅井先生は、「仏様に対し奉る恋慕渇仰こそ、凡夫が仏に成らせて頂けるその入口」であるとして、恋慕渇仰の信心について有難い指導を下さいました。
法華経の寿量品には「心懐恋慕・渇仰於仏・便種善根」(心に恋慕を懐き、仏を渇仰して、便ち善根を種ゆべし)と、仏様を恋慕することにより始めて成仏の種が植えられると説かれていること。
また大聖人様は弘安2年4月の上野殿御返事の追而書(おってがき)に、この「恋慕渇仰」について懇切なる御教示を下されていること。すなわち
「かつへて食をねがい、渇して水をしたうがごとく、恋いて人を見たきがごとく、病にくすりをたのむがごとく、みめかたちよき人べに・しろいものをつくるがごとく、法華経には信心をいたさせ給え。さなくしては後悔あるべし」と。
浅井先生はこの御文について次のように指導下さいました。
「かつへて食をねがい」とは、飢えてお腹がペコペコのときに食べ物を求めるような思いで、ということ。
「渇して水をしたうがごとく」とは、ノドがカラカラに渇いたときに水を求めるような思いで――ということです。
「恋いて人を見たきがごとく」とは、恋する人に何としても会いたいと思うがごとく――ということ。世間でも「惚れて通えば千里も一里」という言葉もある。
「病にくすりをたのむがごとく」とは、病気のときに薬を頼むがごとくに――ということ。
「みめかたちよき人べに・しろいものをつくるがごとく」とは、女性が美しいうえにもさらに美しくなりたいと願って、口紅やお白粉(しろい)を付けるように――ということ。上野殿の家族には、母上そして妹が何人かおられたので、このような身近な譬えを以て「恋慕渇仰」をお教え下されたものと拝し奉る。
以上、まことに懇切極まる御教示であります。
(中略)
この「法華経」とは、釈迦仏の文上脱益の法華経ではない。寿量品の文底に秘沈された下種の法華経、すなわち「南無妙法蓮華経 日蓮在御判」の御本尊の御事です。この御本尊を深く恋慕渇仰して信心に励むようにと、お励まし下されているのであります。
そのうえで
「さなくしては後悔あるべし」と。
この最後の御文は、短くても千鈞の重みを感じますね。
新池御書には
「信心弱くして成仏の延びん時、某(それがし)をうらみさせ給うな」とも仰せられている。
また竜の口大法難のとき、多くの門下が法難のあまりの恐ろしさに退転、あるいは叛逆したが、その三年後、立正安国論の御予言そのままに蒙古が襲来した、他国侵逼が事実となった。このとき大聖人様は顕立正意抄を以て門下一同に対し
「我が弟子等の中にも、信心薄淡(うす)き者は、臨終の時阿鼻獄の相を現ずべし。其の時 我を恨むべからず」
とお示し下されている。
上野殿は若くとも不退の信心です。不惜身命の人であります。しかし地頭という立場から、幕府からはさまざまな圧迫があった。また親戚をはじめ周囲からはさまざまな謀り・誘惑もあった。
そこに大聖人様は「さなくしては後悔あるべし」との大慈悲の御言葉で、上野殿の信心をさらにお守り下されたのであります。
顕正新聞令和5年5月25日号
いかがでしょうか。恋慕渇仰の信心が成仏にとっていかに大事か、そして「恋慕渇仰」とはいかなるものかを、誰にもわかる平易な表現で教えて下さる大聖人様の大慈大悲に、有難さでいっぱいになりました。
日妙殿の不惜身命を拝せよ
次いで浅井先生は、御在世に「絶対信」を貫かれた女性信徒の「日妙殿」について大事な指導を下さいました。
日妙殿は鎌倉で信心に励んでいた女性で、然るべき地位ある人の妻だったと思われますが、信仰のうえから離別のやむなきに至り、「乙御前」という幼子を女手一つで育てていた気丈な人です。
日妙殿は、命かけて信じ奉る日蓮大聖人が竜の口で御頸はねられんとし、さらに佐渡に流罪されたということを耳にしました。
また、この大法難のとき、日和見の信心の者は弾圧を恐れ、続々と退転していきました。
そして世間の者たちはみな「佐渡に流されて生きて帰った者は一人もいない。日蓮房も必ず佐渡で殺されるに違いない」などと噂していました。
しかし日妙殿は、「そんなことのあるべきはずがない」――と、命かけての佐渡参詣を決意されたのです。
鎌倉から佐渡は遠く離れており、中間には険しい山、荒れた海があり、山賊・海賊も充満していました。その中を、幼子を連れての女性の一人旅が、どれほど危険なことか。
しかし日妙殿は「もし大聖人様の無事の御姿を拝見できたら、たとえ帰りには命を失っても悔いはない」との思いに立っておられたのです。
まさに「一心に仏を見奉らんと欲して、自ら身命も惜しまず」――この信心に住しておられたのです。
この不惜身命の参詣をごらんになった大聖人様は、「日妙聖人御書」にこう仰せられています。
「未だ聞かず、女人の仏法を求めて千里の路をわけし事を。乃至、まさに知るべし。須弥山をいただきて大海をわたる人をば見るとも、此の女人をば見るべからず」と。
そして「日本第一の法華経の行者の女人なり」と賞嘆あそばし、「日妙聖人」との名を授けて下さいました。大聖人の御門下で「聖人」号を賜った女性は、日妙殿ただ一人です。
この姿をみるとき、大聖人様の御意に叶い奉るのは、智恵の有無でも口の巧拙でもなく、ただ「一心欲見仏・不自惜身命」の裏も表もない「信心」なのだと、深く命に刻ませて頂きました。
「何があっても大丈夫」
後年、大聖人様が日妙殿に下された「乙御前御消息」には、次のように仰せ下されています。
「法華経は、女人の御ためには、暗きにともしび、海に船、恐ろしき所には守りとなる」と。
すなわち、どのような逆境に置かれようとも、御本尊を命かけて信じ奉る者には行き詰まりはない。必ず道は開ける――と。
浅井先生は、「この御文を拝して、私はいつも『何があっても大丈夫』と言っているのです」と仰せですが、まさに先生の過去六十有余年の激闘こそ、この「何があっても大丈夫」の実証そのものと、畏敬の念と大確信がこみ上げます。
さらに大聖人様は、「人の心かたければ、神の守り必ずつよしとこそ候へ。乃至、例(ためし)には他を引くべからず。日蓮をば、日本国の上一人より下万民に至るまで一人もなくあやまたんとせしかども、今までかうて候事は、一人なれども心のつよき故なるべしとおぼすべし」と。
-人の心が堅ければ、諸天善神の守護も必ず強いのである。その実例をよそに求める必要はない。大聖人に対し、日本国中の人々が命を奪わんとしたが、今までこのように安穏であることは、たとえ一人であっても心が強いゆえである――と。
なんと強き御確信でしょうか。ただ低頭合掌のほかはありません。
絶対信に立たん!
浅井先生は、この大聖人様の仰せを拝して、「絶対信」について大事な指導下さいました。
この仰せを拝すれば、いま広布最終段階に御奉公する顕正会員こそ全員が、心かたき絶対信に立たなくてはいけない。
ある時は信じ、ある時は疑う、そのような薄っぺらな信心、弱々しい信心、ずるい信心では成仏は叶わない。
いかなる難にあおうとも、いや地球が壊われるようなことがあろうとも、大聖人様に命を帰し奉るの、絶対信に立たなくてはいけない。
ゆえに佐渡で著わされた義浄房御書には
「心の師とはなるとも、心を師とすべからず」と。
また身延山中での御講義を日向が記録した「御講聞書」には
「我が心なりとも不信の心出来せば、忽ちに信心に住すべし。所詮、不信の心をば師匠となすべからず。信心の心を師匠とすべし」と。
いいですか。
凡夫の心はさまざまに揺れ動くものです。ある時は目先の欲のために、ある時は瞋(いか)りのゆえに、ある時は愚かのゆえに心が揺れ動く。だがその迷う心、弱い心に引きずられてはいけない。
もし迷う心が起きたら、竜の口における、あの荘厳な金剛不壊の大現証を胸に思い浮かべ、命を仏様に帰し奉る、南無し奉るの、絶対信に立とう。
このとき始めて永遠の仏果が頂けるのであります。
顕正新聞令和5年5月25日号
いかがでしょうか。学会・宗門の無道心の輩には到底窺い知ることもできない、先生の大聖人様に対し奉る透徹の御信心をひしひしと感じては、かかる先生に師事することが叶った宿縁の有難さを噛みしめるばかりです。
お救い下さるは日蓮大聖人ただ御一人
いま広宣流布が近づくにつれ、世界の動きは急テンポで慌ただしくなって来ました。
長期化と混迷をきわめるウクライナ戦争が招くプーチンの核ミサイル使用の狂気、中堅銀行の連続破綻にみる米国の金融危機、1270兆円余の過去最大の国債を抱えて財政破綻不可避の日本、そして歴史が示す世界恐慌と世界大戦の関係性――。
先生は、これらをつぶさに示されたうえで、いま起こらんとしている1929年のときとは比較にならない世界大恐慌こそ、大聖人様が撰時抄に予言し給うた「前代未聞の大闘諍」の前相であり、遠からず、中国の台湾侵攻を発火点として、世界は第三次世界大戦に突入し、米国の属国的立場に置かれている日本は米軍の先兵として中国と対決させられ、亡国に至ることを指導下さいましたが、その時がいよいよ間近に迫っていることを肌身に感じます。
浅井先生は叫ばれました。
このとき日本をお救い下さるのは
「我日本の柱とならむ…等と誓いし願、やぶるべからず」と御誓願下された、大慈大悲の日蓮大聖人ただ御一人であられる。
このとき大聖人様は、他国侵逼の大罰を用いて広宣流布をあそばす。諸天に申しつけて一時に広宣流布をあそばす。
上野抄に仰せられた
「ただをかせ給へ、梵天・帝釈等の御計いとして、日本国一時に信ずる事あるべし」
とは、まさしくこのことであります。
いいですか。
広布最終段階の重大なる大聖人様の御化導において、顕正会は大事な御奉公をさせて頂けるのです。全日本人に、日蓮大聖人の大恩徳を心魂に徹するまで伝え、教える御奉公をさせて頂けるのです。
絶対信に立つ三百万の仏弟子の大集団があれば、一国は必ず動く。
大聖人様は必ず御照覧下さる。
早く三百万を成し遂げ、大聖人様に応え奉りたい。
顕正新聞令和5年5月25日号
この広布最終段階に、大聖人様の大恩徳を全日本人に伝え教える大事な御奉公が叶うとは、なんと有難いことでしょうか。仏弟子としてこれに勝る喜びはありません。
私も「心かたき絶対信」に立ち、新しい広告文を手に、いよいよ広宣流布のお手伝いに励んでいきたいと思います!