もし細井日達が浅井先生の「基礎教学書」を読んで信心を取り戻していたら(2)

前回の続きです。

ターニングポイント④:昭和47年7月の訓諭の訂正文

 細井日達が御遺命違背の「訓諭」を出してしまった後も、浅井先生の諫暁は続きます。

 先生は、昭和47年7月6日、妙縁寺に下向してきた細井日達と面談し、「訓諭」が御遺命に背いていることを一々に指摘し、ついに細井日達に「訓諭」の訂正文を書くことを約束させました。先生の凄まじい護法の一念を感じます。

 細井日達は約束どおり、7月19日、総本山で先生に「訓諭」の訂正文(解釈文)の原稿を渡します。そこには、次のような文言がありました。「一期弘法抄、三大秘法抄の事の戒壇は甚深微妙の事の戒壇で、凡眼の覚知の外にあるのであろう」と。

 例によってわかりにくい悪文ですが、要するに、当時、正本堂が建設中だったにもかかわらず、御遺命の戒壇は「凡眼の覚知の外にある」と述べることで、正本堂と区別したのです。自分の誤りをできるだけ悟られないように、「貫首」のメンツを保ちながら曖昧に訂正しようという細井日達の苦しい心境が読み取れますね。

 浅井先生は、この訂正文に、文意を明確にするための修正を加えた上で、これを訓諭の新しい解釈として「大日蓮」昭和47年8月号に掲載することを細井日達に約束させたのでした。

 ところが、またしても細井日達は学会の圧力に屈してしまいます。この会話を盗聴していた学会側からの強い働きかけにより、訂正文を公表することができなかったのです。

 8月12日、細井日達は再び妙縁寺に下向し、浅井先生に対し、「先日の約束は取り消します。もう私にはどうにもならない・・・」と言ってサジを投げました。

 もしこのとき細井日達が「基礎教学書」を熟読して信心を取り戻していたら、また別の対応になった可能性もあります。しかし、このときの細井日達は、わずか1か月前に浅井先生と固く交わした約束すら簡単に反故にしてしまうほど弱々しく、頼りない状態でしたら、学会の圧力に打ち勝つことを期待するのは難しいかもしれません。

 「時の貫首」の立場にありながら、ここまで学会の御遺命破壊に与同してきてしまった細井日達は、このとき、もはや簡単には立ち直れないほど堕ちてしまっていたのです。

ターニングポイント⑤:昭和47年10月の聖教新聞での訂正

 このような細井日達の姿をご覧になられた浅井先生は、この上は元凶である学会を抑える以外になしと決意し、細井日達を通じて学会に法論を要請しました。その結果、正本堂落成直前の昭和47年9月13日から7回にわたって、浅井先生と学会代表との間で法論が行われました。

 浅井先生は、学会代表の秋谷栄之助副会長、原島嵩教学部長、山崎正友弁護士の3人を相手に、常泉寺において激しい論判を行い、対論6回目の9月27日、ついに決着がつきました。屈服した学会代表は、聖教新聞紙上に正本堂の意義を訂正する訂正文を掲載することを応諾したのです。

 そして、学会は約束通り、聖教新聞昭和47年10月3日号に、次の訂正文を掲載しました。

 「現在は広宣流布の一歩にすぎない。したがって正本堂は猶未だ三大秘法抄・一期弘法抄の戒壇の完結ではない。故に正本堂建立をもって、なにもかも完成したように思い、御遺命は達成されてしまったとか、広宣流布は達成されたなどということは誤りである。また、この正本堂には信心強盛の人のみがここに集いきたり、御開扉を願う資格がある。したがって正本堂は広宣流布のその日まで、信徒に限って内拝を許されることはいうまでもない」と。

聖教新聞昭和47年10月3日号(顕正会公式サイトより引用)

 これまで「正本堂」を指して「御遺命の戒壇」、「広宣流布は達成」と言い続けてきた学会が、それは「誤りである」と明確に訂正したのです。

 ここに、戒壇の大御本尊が御遷座されるギリギリのところで、「正本堂は御遺命の戒壇ではない」との訂正がなされました。これすべて浅井先生の御諫暁によります。先生の、戒壇の大御本尊に対し奉る不敬を断じて許さじとの凄まじい御一念には、ただ低頭のほかありません。

 さて、もしここで細井日達が「基礎教学書」をしっかりと熟読し、信心を取り戻していたら、どうなっていたでしょうか。

 細井日達は、公表こそできなかったものの、浅井先生の御前では「訓諭」の誤りを認め、これを訂正する「解釈文」の原稿を作っていました。そして、細井日達に「解釈文」の公表を断念させた学会も、浅井先生に屈服して「正本堂は御遺命の戒壇の完結ではない」と認めるに至りました。

 そのため、もし学会の圧力が衰えたこのタイミングで、細井日達が意を決して先の「解釈文」を公表していたら、「訓諭」の誤りは訂正され、「正本堂」は単なる奉安殿の延長の建物となりました。

 その上で、御遺命の戒壇は国立戒壇であると正式に表明すれば、ここに学会の政治野心に端を発した偽戒壇・正本堂の誑惑は正され、宗門に国立戒壇の正義が蘇ったはずです。

 きっと、細井日達は、浅井先生をお呼びして、次のように語ったことでしょう。

 「浅井さん、よく学会を抑えてくれました。私は力及ばず、学会を抑えることができなかった。そのために、ここまで本宗の伝統教義を変え、大勢の信徒たちを迷わせてしまった。しかし、恐れるべきは、やはり大聖人様の御眼なのだと気づきました。私も、今度こそ心を入れ替えます。訓諭の解釈文を公表し、広宣流布の暁の国立戒壇こそ御遺命なのだとはっきりと申します。責任役員会の機関決定を経て、本宗の教義をもとに戻すのです。日淳上人の頃の、あの清らかな宗門に・・・。そうすれば、本宗の教義は七百年来の伝統のまま、清らかになるでしょう。浅井さん、大事の御遺命を、そして私を守ってくれて、本当にありがとう」と。

 私としては、ここが細井日達の立ち直る最後のチャンスだったように思います。しかし、信心薄き細井日達には、それができなかったのです。

 さて、学会に正本堂の誑惑を訂正せしめられた浅井先生は、その直後の「富士」巻頭言に、「今は静かにその誠意を見守らせて頂く。もし不実ならばすでに仏天これを許さず、自らその身を亡ぼすのみ。而して一国広宣流布は未だおわらず、御遺命の事の戒壇は未だ立たず」(「富士」昭和47年10月11日)と仰せられ、学会・宗門の誠意を見守ることにしました。

 そして、昭和48年5月、久々の登山を総本山に願い出ました。すでに元凶たる学会は誑惑を訂正し、細井日達も「訓諭」の誤りを認め、これを訂正する解釈文まで書いていた以上、宗門が御遺命の正義に立ち返るものと考えるのは当然です。

 ところが、宗門からの回答は、思いもよらぬものでした。「国立戒壇を捨てなければ登山は許されない。これは猊下の御意である」と。

 つまり、細井日達は、浅井先生の御前では内々に「訓諭」の誤りを認め、これを訂正する「解釈文」を書いたものの、未だに国立戒壇を否定し、代わりに建てた正本堂を「御遺命の戒壇となる建物」とする御遺命違背を維持していたのです。

 ここに浅井先生は、妙信講の安穏よりも、大聖人への忠誠を選ばれました。昭和49年5月19日、妙信講総会を開き、次のように述べられました。

 「国立戒壇を捨てて登山をして、果たして大聖人様はお喜び下さるであろうか。御遺命守護のご奉公は未だ終らず、徹底してその悪を立たねばならぬ。師子王の心を取り出して国立戒壇への怨嫉を打ち砕き、政府への欺瞞回答を訂正せしめる」と。

 そして、その直後より、学会・宗門に対する諫暁を連々と続け、ついに昭和49年8月12日、覚悟のごとく解散処分が下りました。

「日蓮正宗管長・細井日達」の名をもって下された「宣告書」の処分理由は、「国立戒壇の名称を使用しない旨の宗門の公式決定に違背し、更にまた昭和四十七年四月二十八日付『訓諭』に対して異議を唱えたゆえ」というものでした。

 ちなみに「昭和四十七年四月二十八日付『訓諭』」というのは、あの正本堂を「御遺命の戒壇となる建物」と意義づけた訓諭です。浅井先生の前では内々に訂正したにもかかわらず、「妙信講(顕正会)はこれに背いている」といって、解散処分の理由にしたのです。なんと恥知らずな人でしょうか。無慙無愧とはこのことです。

昭和50年7月の大謗法発言

 そして、昭和50年7月5日の法華講連合会の会合において、ついに細井日達は決定的な御遺命違背の発言をするに至ります。

 「浅井昭衞のいう内意云々はまったくの虚言であり、訓諭及び説法以外に私の真意はない」、「浅井らは何ら教義上の反ぱくもなく、ただ先師がどうの、私が昔云ったのと、云うだけであります。私は昔云ったことはあるが、今は云わないと云っておるのであります。私の信念は不動であります。未来永遠にわたり、国立ということはなかろうと確信しておるからであります」、「国立というのは本宗の教義ではない」と。

 このように、細井日達は、猊座の尊厳を守るため学会を諌め続けてこられた浅井先生に対し、先生のいう日達の「内意」は「まったくの虚言」と誹謗し、「訓諭及び説法以外に私の真意はない」と言い切りました。つまり、偽戒壇・正本堂を「御遺命の戒壇となる建物」と断定した訓諭が「私の真意だ」と放言したわけです。

 また、「未来永遠にわたり、国立ということはなかろうと確信しておる」、「国立というのは本宗の教義ではない」との発言は、日達が単に「名称」を捨てただけでなく、その「内容」である国家的建立をも否定したことを示しています。

 かつては「勿論この戒壇は、広宣流布の暁の国立の戒壇であります」(「大日蓮」昭和36年5月号)と正論を述べていた彼ですが、「私は昔云ったことはあるが、今は云わない」とのこと。もはや人格を疑うしかありません。

御遺命破壊の大罰=突然死+真っ黒な堕獄の相

 ここに「御遺命の敵」となり終わった細井日達は、4年後の昭和54年7月22日、激甚の心臓発作に襲われ、「真っ黒で『助けてくれ!』と叫んでいるような悪相」を現じて命終しました(詳しくはこちらの記事をご覧ください)。

 日蓮大聖人は、教行証御書に「一切は現証には如かず。・・・実に正法の行者是くの如くに有るべく候や」と仰せられています。この細井日達の悪臨終こそ、「時の貫首」の立場にありながら、池田大作にへつらい、国立戒壇の御遺命を捨てて偽戒壇・正本堂を御遺命の戒壇と偽称した大罰にほかなりません。

 もし細井日達が、臨終を迎える前日に、「基礎教学書」の「御遺命守護の戦い」を読み、これから自身が御相承をも成し得ずに突然死することを知ったとしたら、どうしたでしょうか。

 きっと恐怖に身を震わせながら、五体投地の懺悔をして御遺命違背の大罪を悔い改め、大聖人に対し奉り、御遺命の正義に立ち還ることを涙の中に固く誓い奉ったことでしょう。でも、残念ながら、彼にはそれができませんでした。次の阿部日顕も同様です。

宗門は早く国立戒壇の正義に立ち還らなければなりません

 いま浅井先生は、早瀬日如管長に対し、かつて国立戒壇を否定した宗門の機関決定を取り消し、速やかに国立戒壇こそ大聖人の御遺命と宣示せよと諌められています。「師は針のごとく、弟子は糸のごとし」ですから、早瀬管長の決断は、全宗門僧俗の成仏・不成仏にも関わる問題です。

 臨終を迎えてから「しまった」と思っても、もう遅いのです。また、正系門家の御遺命違背により、いま「総罰」である大疫病、経済崩壊等も起きてきました。

 今こそ宗門は御遺命違背の大罪を深く改悔し、国立戒壇の正義に立ち還らなければなりません。