歴史的な「御遺命守護」特集号4(2)

 前回の続きです。

 浅井先生が、宗門の「時の貫首」・早瀬日如管長に対し、早く悪人を追放して「国立戒壇」の正義に立ち還るよう直諫された歴史的な「御遺命守護」特集号4

 今回は、浅井先生のご講演の続きを拝していきたいと思います。

なぜ「御遺命守護」特集号を連々と発刊しているのか?

 浅井先生は、いま「御遺命守護」特集号を次々と発行されています。今回で4回目ですね。その御心につき、次のように仰せられています。

 さて、私はこのところ、連々と「御遺命守護・特集号」を発刊しておりますが、その心はただ一つ-

 正系門家がいつまでも大事な御遺命・国立戒壇を否定したままでは、何とも大聖人様に申し訳ない

ただこの思いだけであります。

 そうでしょ。

 正系門家・富士大石寺は、日興上人・日目上人以来七百年、ただ大聖人の御法魂たる「本門戒壇の大御本尊」を秘蔵厳護し奉り、ひたすら御遺命の国立戒壇建立を熱願し、これを唯一の宿願として来たのです。

 ゆえに第六十四世・日昇上人は

 「国立戒壇の建立を待ちて六百七十余年今日に至れり。国立戒壇こそ本宗の宿願なり」(奉安殿慶讃文)

と仰せられている。

「御遺命守護」特集号4

 いかがでしょうか。正系門家・富士大石寺が、700年間、国立戒壇建立の御遺命を宿願として来たこと、日昇上人の凛たる御宣言に明らかですね。

 しかるに宗門は、池田大作に迎合して正本堂の誑惑に加担し、正本堂が崩壊した後もなお、未だに国立戒壇の御遺命を否定し続けているのです。まさに第六天の魔王の執念を見る思いですね。

 そこに、正系門家においてただ御一人、御遺命の正義を守り奉られた先生が、この師敵対・無道心の宗門の現状をご覧になり、どのような御心であられるか。その一端が、「正系門家がいつまでも大事な御遺命・国立戒壇を否定したままでは、何とも大聖人様に申し訳ない」とのお言葉に表れているものと拝します。これが一切の私心なき浅井先生の御心なのです。

御遺命守護の戦いにおける浅井先生の御心

 さて、今回の特集号では、昭和45年から開始された大河のごとき御遺命守護の戦いについて、その経緯を平易かつ端的にお教え下されています。

 このご指導を心静かに拝するとき、誰人も、浅井先生の戦いには一切の私心がなく、ただ「大聖人ここにましませば何を命じ給うか」との大忠誠のみで貫かれた御奉公であられたことを、豁然と拝するものと思います。

 昭和42年10月、正本堂発願式で御遺命違背の「発誓願文」を読み上げた池田大作。それを後ろで見ながら聞きながら一言も咎めず、かえって翌43年1月には「此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります」(大白蓮華・昭和43年1月号)などと阿諛追従した細井日達。そして、ひたすら池田に媚びへつらい、「正本堂こそ御遺命の戒壇」と口をそろえて大合唱した宗門の高僧たち。

 この御遺命破壊の大悪を眼前にされた浅井先生が、御遺命守護の戦いにお立ちになられたときの御心は、「この御遺命破壊の大悪を見ながら知りながら、もし黙っていたら、それこそ大聖人様に対し奉る最大の不忠になる。大聖人様に申しわけない」。ただこの御一念だったのです。

 その後、先生は、学会・宗門との間で激しい論判を重ねられ、ついに学会に2度も文書で誑惑を訂正せしめ、細井日達には訓諭の訂正文を書かしめられました。当時の学会の強大さ、時の貫首の絶対権威を思えば、これがいかに大難事であられたか。想像を絶します。

 ところが、細井管長と学会に正本堂の誑惑を訂正せしめられた先生が、昭和48年、宗務院に久々の御登山を願い出られたとき、早瀬総監から伝えられた返事は、「国立戒壇を捨てなければ登山は許されない。これは猊下の御意である」というものでした。

 もし宗務院の勧告を受け入れていたら、妙信講(顕正会の前身)は御登山を許され、解散処分を受けることもなかったでしょう。しかし、それでは、御遺命の国立戒壇の正義が正系門家から消滅してしまいます。すでにこのとき、国立戒壇の正義を叫ぶ団体は、妙信講だけになっていたのです。

 そこに、浅井先生は、「国立戒壇を捨てて参詣して、大聖人様はお喜び下さるか。かえってお叱りを受けるに違いない」と、講中の安穏よりも大聖人への忠誠を選ばれたのです。先生は、不純な取引のごとき御登山を自ら辞退されました。

 そして、「御遺命守護の御奉公、未だ終わらず」として、学会・宗門に国立戒壇の正義に立ち還るよう強烈に諫暁を続けた結果、ついに昭和49年8月12日、かねてご覚悟のごとく、死罪に等しい解散処分が下ったのです。

 この宣告書に書かれた処分理由は、「国立戒壇の名称を使用しない旨の宗門の公式決定に違背し、更にまた昭和四十七年四月二十八日付『訓諭』(注、正本堂を御遺命の戒壇になる建物と断定した訓諭)に対して異議を唱え」たゆえ、というものでした。

 この宣告書を見れば、学会・宗門がこぞって正本堂を御遺命の戒壇と讃嘆する中、妙信講だけが国立戒壇の正義を堅持し、正本堂を御遺命の戒壇となる建物とする「訓諭」に「異議」を唱え、これに従わなかったことがよくわかります。まさしく妙信講は、国立戒壇の御遺命を守り奉ったゆえに解散処分を受けたのです。

 この宣告書を手にされたとき、先生の胸に湧き上がった思いは、「大事の御遺命が破壊されんとしているとき、妙信講が安穏であってはいかにも大聖人様に申しわけない。これで一分でも申しわけが立つ。御遺命を守るに『懈怠の弟子、ゆるき行者』とのお叱りだけは免れる」との思いだけでした。

 いかがでしょうか。これが御遺命守護の戦いにおける、一切の私心なき浅井先生の御心です。

 かかる大忠誠の浅井先生なればこそ、大聖人が御守護くださり、潰れて当然だった顕正会は210万を超え、御遺命の「国立戒壇」を高々と掲げて日本国を独走する仏弟子の大集団となったのだと、感嘆せずにはいられません。

必死にデマを広める宗門の人たち

 ところが、先生の御遺命守護の戦いをなんとか貶めたい宗門の人たちは、よく顕正会の歴史を歪曲した資料を配ったりしています。私も見たことがありますが、それはそれは酷いモノでした。

 たとえば、浅井先生や初代講頭先生がワガママな問題児であり、妙信講を発足する前には様々な寺院で問題を起こし、転々としていた、みたいなことが書いてありました。

 しかし、そもそも「当事者」でも何でもない者たちが、怨嫉心から事後的に書いた文章に、どうして信憑性があるでしょうか。

 一例を挙げれば、先に見た浅井先生や初代講頭先生に対する中傷も、事実に反しています。最初の「妙信講」の創立は昭和17年。戦時下にもかかわらず初代講頭先生は寸暇を惜しんで折伏を進め、昭和31年には700を超える大講中となっていました。そのため、初代講頭先生は、当時所属していた法道院の住職から、他の10を超える小さな講と合併して出来た寺院法華講の講頭に任命されたのです。

 もし初代講頭先生がワガママゆえに寺院を転々としてきた問題児であったなら、このような処遇はありえません。また、あの戦時下において、熱烈な弘通をすることなどできるはずもありません。まさに真実は、初代講頭先生が強盛そして熱烈な信心の御方であったゆえに、あの戦時下における熱烈な死身弘法があり、寺院法華講の講頭任命もあったのです。

 私はいつも思うのですが、宗門僧俗は、顕正会を貶め、会員を誑かすためなら、平気でウソをついてきます。こちらが知らないと思ってウソをつき、バレたらバレたで、何ら悪びれることなくまた別の誹謗を繰り返すのです。

 このような無智・無道心の輩が、「われ賢し」と勘違いして、御遺命を命かけて守り奉られた浅井先生・初代講頭先生をかりそめにも謗ることは言語道断です。身の程を知らねばなりません。

師は針のごとく、弟子は糸のごとし

 よく「師は針のごとく、弟子は糸のごとし」といいます。すでに確定的となった細井日達の悪臨終を見れば、これに付き従う宗門僧俗の「現世の大罰」と「後生の堕獄」は必定です。

 一方、初代講頭先生の素晴らしい成仏の妙相を見れば、健気に信心を貫く顕正会員がみな現当二世の大利益を頂けることもまた疑いありません。

 信心だけは、僧俗の別もない、位の別もない、ただ大聖人の御心に叶い奉るか否かなのだとつくづく思います。いま浅井先生のもと、顕正会員として正しい信行が叶うこと、これほど有難いことはありません。

 さあ、宗門の御遺命破壊のたばかりもいよいよ最終章!そして、明年からは、いよいよ広宣流布の決戦場に突入します!

 私も一生成仏と広宣流布をみつめ、勇躍歓喜してご奉公を貫いていきたいと思います。