日蓮大聖人とはいかなる御方か(4)国家権力も御頸切れず

宗教はどれも同じ?

 このブログでは、基礎教学書の広告文をもとに、「日蓮大聖人とはいかなる御方か」について書いてきました。まじめに読んで頂ければ、日蓮大聖人こそ、末法濁悪の人と国を根底からお救い下さる大慈大悲・絶大威徳の御本仏であられることが、一分なりともおわかり頂けたものと思います。

 でも、中には、「ふん、そんなご立派なこと言ってみたってダメさ!あたしゃ、人生経験が長いからね。どの宗教もみんな同じようなこと言うんだから!宗教なんて、どれも同じ!」という、ちょっとひねくれた人もいるかもしれません(笑)

 そもそも、ちゃんと学んだこともないのに、「宗教はどれも同じ」と一括りにしてしまっていること自体、非常に乱暴な議論であり、あまり知的な態度とは言えませんよね。

 まして、日蓮大聖人の仏法(三大秘法)は、大聖人が透徹の御智慧をもって、教・機・時・国・教法流布の前後の五義(五綱判)を三証(道理・文証・現証)に検して御考察され、確立し給うた全人類成仏の大法ですから、すでに力を失った既成仏教や、おとぎ話のキリスト・イスラム、あるいは、そこらへんに転がっている(?)デタラメな新興宗教等とは、およそ一線を画するのです。

 ・・・とはいえ、やはり宗教について何も知らない人にとっては、これらの違いを理解するのはなかなか難しいかもしれません。「どれも同じ!」と考えてしまうのも、無理もないことでしょう。

 しかし、もし誰にもわかる厳然たる「現証」があれば、はたしてどうでしょうか?

 それが、700年前に大聖人が見せて下さった「竜の口の大現証」です。

 文永8年(1271年)9月12日の深夜、鎌倉幕府は日蓮大聖人に対する死刑を執行しました。しかし、「月のごとく光りたる物」の出現により、ついに大聖人の御頸を刎ねることができず、その絶大威徳の前に、かえってひれ伏してしまったのです。

不惜身命の御修行

 まず、竜の口大法難に至るまでの大聖人の御振舞いを、基礎教学書を通して、少しく拝してみたいと思います。

 大聖人は御年十二より三十二歳までの二十年間、国中の諸寺を巡って日本に渡来した一切の経論を学ばれ、ついに釈尊一代聖教の淵底を究め、諸宗の奥義もことごとく見極められた。

 そして御年三十二歳の春、清澄山に帰り、「末法の本尊とは何か」を祈り給うに、明星ヶ池に映る御自身の影に「南無妙法蓮華経」の御本尊のお相貌(すがた)を見給うた。これこそ寿量文底の大法、すなわち久遠元初の自受用身ご証得の「人法体一・事の一念三千の南無妙法蓮華経」であり、末法の一切衆生の成仏の大法である。

 かくて建長五年四月二十八日、朝日に向かって始めて南無妙法蓮華経と唱え出だされ、人々にも「一切の邪法を捨て、南無妙法蓮華経と唱えよ」と、大慈悲を以てお勧め下された。これが立宗である。

 このときの御決意を開目抄には

 「日本国に此れを知れる者、但日蓮一人なり。これを一言も申し出だすならば、父母・兄弟・師匠・国主の王難必ず来たるべし。いわずば慈悲なきににたり、乃至、今度、強盛の菩提心を起こして退転せじと願じぬ」と仰せられている。

 当時の日本国は、念仏・真言・禅・律等の諸宗が充満していた。これらの諸宗は釈尊の本懐たる法華経にも背き、自己勝手に未顕真実の経々に固執する謗法の邪宗であるが、国中の人々はその邪法にたぶらかされ、国主もこれら邪師に帰依していた。

 邪師らは「一切の邪法を捨て、ただ南無妙法蓮華経と唱えよ」と勧める大聖人を強く憎んだ。そして己れの地位と利権を守るため、民衆には「阿弥陀仏の敵」と煽って大聖人を憎ませ、国主には無数の讒訴をして、大聖人の御命を奪わんとした。

 ここに、国中の悪口罵詈はもとより、松葉ヶ谷の草庵襲撃、伊豆流罪、小松原の剣難、さらに竜の口大法難、佐渡流罪等の身命に及ぶ大法難が、波のごとく大聖人の御身を襲ったのである。

基礎教学書第1章

 いかがでしょうか。当時、邪宗の坊主たちの扇動により、国中が大聖人を憎み、命に及ぶ大難が波のごとく襲いました。しかし、大聖人は、ただ一切衆生を救わんとの大慈大悲のゆえに、これらの大難を耐え忍ばれたのです。なんとも恐れ多く、勿体ない限りですね。

 その中、ついに国家権力による死罪である「竜の口の大法難」が起きたのです。広告文を拝してみましょう。

国家権力も御頸切れず

竜の口刑場付近の砂浜(顕正会公式サイトより引用)

 日蓮大聖人の折伏に対し、教義上の反論ができぬ邪僧らは、民衆を煽動し国主に讒奏して、大聖人の命を奪わんとした。かくて、ついに国家権力による死罪が執行された。

 文永八年九月十二日の深夜、大聖人は竜の口刑場の「頸の座」に坐し給うた。そして大刀まさに振り降ろされんとしたその刹那、「月のごとく光りたる物」が突如出現し、太刀取は目がくらんでその場に倒れ伏し、数百人の兵士たちも一斉に逃げ出し、みなことごとく砂浜にひれ伏してしまった。

 ひとり頸の座にまします大聖人は高声に

 「頸切るべくわ急ぎ切るべし。夜、明けなば見苦しかりなん」と死刑執行を催促された。しかし近よる者とてない。

 まさに国家権力が、ただ一人の大聖人の御頸を切れず、かえってその絶大威徳の前にひれ伏してしまったのである。このような不可思議・荘厳な光景は、この地球上に未だ曽てない。

 この思議を絶する大現証こそ、日蓮大聖人が久遠元初の御本仏、末法の全人類をお救い下さる仏様であることを顕わすものである。

基礎教学書 日蓮大聖人の仏法(広告文)

 いかがでしょうか。まさに大聖人は、目に灼きつく強烈な「事実」をもって、日蓮大聖人こそ末法の全人類をお救い下さる仏様であることを、私たちに見せて下さったのです。

 この大現証について、浅井先生は次のように指導下されています。

 キリストは磔になって横死している。これ凡夫だからだ。「聖人は横死せず」(神国王御書)という。仏様に対してなし得る罪は「出仏身血」(仏の身より血を出す)を以て最大とする。仏を殺す罪の規定はない、不能犯だからだ。かかる絶大威徳の仏様にして、始めて全人類をお救い下さることができるのである。

基礎教学書第1章

「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」

 この大慈大悲・絶大威徳の御本仏・日蓮大聖人の大恩徳を全日本人に教え、人を国を救わんと、大聖人の御遺命たる広宣流布・国立戒壇建立を見つめて折伏を行じている仏弟子の大集団が、冨士大石寺顕正会です。

 だからこそ、顕正会には功徳が満ち、毎月大勢の人々が入信・入会しているのです。大聖人の仰せのままの信心をして、仰せのままの功徳を頂けること、なんとも有難いですね。

 最後に、広告文の最後の一節を引用して、記事の結びに代えたいと思います。

 大聖人は流罪の地・佐渡の雪中において

 「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」と叫ばれた。すなわち、日蓮大聖人を信ずるか背くかによって、日本国の有無も、人類の存亡も決するということである。

 いま世界は核兵器使用の第三次大戦の瀬戸際にあり、人類は絶滅の危機に瀕している。その中で日本は軍事超大国・中国の侵略に脅えている。

 この国に大慈大悲・絶大威徳の御本仏ましますを無視し、背き続けたゆえに、いま日本は亡国を招かんとしているのである。

 この大国難には、日米安保も第九条も虚しい。

 今こそ全日本人は、大慈大悲・絶大威徳の日蓮大聖人に帰依し奉り、国立戒壇を建立して金剛不壊の仏国を築かねばならない。

 残された時間は少ない。

基礎教学書 日蓮大聖人の仏法(広告文)