顕正会員の臨終に対する疑難中傷を破す

創価学会・宗門破折宗門(日蓮正宗), 破折

後生を恐れぬ無道心の宗門

 最近、宗門関係者が、顕正会の会館や自宅拠点に安置されている御本尊のことを口汚く罵っているようです。わざわざ顕正会の会館近くまで来て、悪質なビラを配っている法華講員もいますよね。

 その目的は、御遺命違背という否定し得ない大罪への呵責をかわすため、そして、信心がおぼつかない顕正会員を誑かして檀徒に引き込むためと思われます。

 もっとも、私の印象としては、たとえ宗門の者であってもそれなりに見識のある人は、容易く御本尊に対する誹謗はしてきません。それは、御本尊を謗ることがどれほど深い罪障を作るかということを、一分なりとも弁えているからでしょう。

 ところが、無道心の宗門坊主や、それに誑かされた無智の法華講員などは、それこそ根も葉もないヨタ話や下らない邪推をもとに、ことさら誹謗中傷し、挙句の果てには顕正会員の「成仏の相」まで否定してきます。まことに愚かしい限りですね。

 そこで、この記事では、それらの疑難中傷を破折してみたいと思います。

「一切は現証には如かず」=すべてを物語る成仏の相

 日蓮大聖人は、「一切は現証には如かず」(教行証御書)、「道理・証文よりも現証にはすぎず」(三三蔵祈雨事)と仰せられています。

 いま顕正会に溢れる功徳の体験、そして何より、色白く、軽く、柔らかくなる顕正会員の「成仏の相」こそ、顕正会だけが大聖人の御心に叶う信心をしている「現証」にほかなりません。

 恐れ多い言い方ですが、もし顕正会が大聖人の御心に違うことをしているとしたら、顕正会員が成仏の相を現ずることはありません。それこそ、御遺命に背いて急死した細井日達のように、みなドス黒い阿鼻獄の相を現じていることでしょう。しかし、実際には、功徳の体験、そして素晴らしい成仏の相の登壇が絶えません。

 先日も、金谷106隊長が祖母の臨終について登壇していました。臨終後、家族で唱題回向していくと、「次第に顔は白く、唇は赤く、柔和な相へと変わり、顔のシワもなくなり、髪の毛の根本が徐々に黒くなっていった」そうで、「室内の電灯が反射するほど肌も艶々で、生前より三十歳以上も若返ったのではないかと思えるほど」だったそうです。また、訃報を知って焼香に訪れた宗門末寺「広宣寺」の住職・菊池正聞も、祖母の相を見るなり、開口一番、「おお!本当に凄く良い相ですね!」と感嘆の声を上げ、その後、何も言わずに帰って行ったそうです(顕正新聞平成31年4月5日号より)。

 このように、いま顕正会員が大聖人仰せのままの功徳を頂き、仰せのままの「成仏の相」を現じている姿こそ、宗門坊主が垂れ流す疑難中傷が根も葉もないデマであることの証左です。

 ちなみに、「臨終の証拠」の詳細については、こちらの記事をご覧下さい。

「臨終用心抄」を悪用したたばかり

 この厳然たる事実を否定できない宗門関係者が考え出した苦肉の策が、「臨終用心抄」を悪用したたばかりです。

 「臨終用心抄」は、その冒頭に「寛記雑々」とあることから、日寛上人の雑記とされています。ただし、一般的に知られているものはあくまで写本であり、堀日亨上人によれば、他にも写本が存在し、その内容は相互に多分に異なるようです。

 それはさておき、宗門関係者は、この「臨終用心抄」の中に、「一、他宗謗法の行者は縦ひ善相有りとも地獄に堕つ可き事」と書いてあることをもって、「たとえ顕正会員が成仏の相を現じたとしても、それは地獄に堕ちているのだ」と誹謗するわけです。

 しかし、これは全くのデタラメ、極めてお粗末なたばかりです。以下、簡単に破折します(ただし、これはあくまで個人的な見解であることをお断りしておきます)。

「善相」=臨終正念≠成仏の相

 まず、宗門関係者は先の条目における「善相」の意味をごまかしています。

 ここでの「善相」とは、「臨終正念であること」という意味で用いられている言葉であって、いわゆる成仏の相(色白く、軽く、柔らかくなる)を指すものではありません。

 このことは、この条目の内容、そして次条の「一、法華本門の行者は不善相なれども成仏疑ひ無き事」の内容をきちんと読めば一目瞭然です。いずれも「善相」「不善相」という言葉を「臨終正念か否か」という意味で用いておられます

 これは、たとえば念仏宗の者が、臨終のとき正念にして念仏を唱えて死んだとしても、堕獄は疑いないということ、また、もし正系門家において大聖人の仏法を信ずる者が、臨終のとき重病により正念を失い、唱題することができずに亡くなったとしても、成仏は疑いないということを御指南くだされたものです。

 このように、この条目は、そもそも「成仏の相」(白く、軽く、柔かくなる)で亡くなった方について仰せられたものではありませんから、「成仏の相」を現じた顕正会員を地獄に堕ちたと謗る根拠にはなり得ません。

 事実、これらの条目の前には、「一、臨終の相に依って後の生所を知る事」とて、臨終の相の白・黒により成仏・堕獄を知るべしとの御指南があります。まさしく臨終の相の白・黒こそ、成仏・堕獄を判ずる決め手なのです。

 また、念のため付け加えれば、先の条目は「他宗謗法の行者」についての御指南ですから、そもそも御遺命の正義を堅持する冨士大石寺門流の正統・顕正会がこれに当たらないことは言うまでもありません。

大聖人の御金言

 何より仏弟子ならば、すべからく御金言を本としなければなりません。御本仏・日蓮大聖人は、臨終の証拠について、次のように仰せられています。

先づ臨終の事を習うて後に他事を習うべしと思いて、一代聖教の論師・人師の書釈あらあら勘へあつめて、此を明鏡として一切の諸人の死する時と並びに臨終の後とに引き向へてみ候へば、少しもくもりなし。此の人は地獄に堕ち給う、乃至人・天とは見へて候」(妙法尼御前御返事)

善無畏三蔵は、乃至、死する時は『黒皮隠々として骨甚だ露わる』と申して、無間地獄の前相を其の死骨に顕わし給いぬ。人死して後色の黒きは地獄に墜つとは一代聖教に定むる所なり」(神国王御書)

人は臨終の時、地獄に堕つる者は黒色となる上、其の身重き事千引の石(いわ)の如し。善人は設(たと)い七尺八尺の女人なれども、色黒き者なれども、臨終に色変じて白色となる、又軽き事鵞毛の如し、輭(やわらか)なる事兜羅綿(とろめん)の如し」(千日尼御前御返事)

 これが御本仏・日蓮大聖人の御金言です。あの不世出の大学匠・日寛上人が、どうして大聖人の御金言と整合しない御指南をされるでしょうか。

 条目の内容を隠し、小見出しだけを切り文・曲会して、「成仏の相」を現ずる顕正会員を謗ることは断じて許されません。

後生を恐れよ

 いかがでしょうか。これまで見てきたように、まじめに信心する顕正会員はみな「成仏の相」を現じており、「臨終用心抄」の条目はこれを否定する根拠にはなりません。

 これは一体何を意味するのでしょうか。

 それは、宗門関係者が吹聴する御本尊に対する疑難中傷がデマであるということ、そして、顕正会だけが大聖人の御心に叶い、成仏が叶う団体であるということです。

 そこに、かりそめにも御本尊を謗ることが、どれほど深い罪障を作るか。恐れ多くも御本尊に対する誹謗であれば、その罪、まさに万死に値するもの、無間地獄は疑いありません。後になって「あのときは言い過ぎました。勘違いでした」といって済む問題ではありません。

 顕立正意抄の仰せに云く、「我(わが)弟子等の中にも信心薄淡(うす)き者は、臨終の時阿鼻獄の相を現ずべし。其の時我を恨むべからず等云々」と。

 もし一分の道念あるならば、後生をこそ恐れなくてはなりません。

参考

 以下、参考までに「臨終用心抄」(写本)の一部を抜粋して掲載します。

一、臨終の相に依って後の生所を知る事。

金山二末 三十五に諸文を引く、往見。御書【三二 十一】に云く、法華経に云く如是相【乃至】究竟等云云、大論に云く臨終に黒色なるは地獄に堕つ等云云、守護経に云く地獄に堕つるに十五の相あり、餓鬼に七種の相あり、畜生に五種の相あり等云云、天台大師摩訶止観に云く身の黒色をば地獄の陰に譬ふ等云云【乃至】天台の云く白は天に譬ふ等云云、大論に云く赤白端正なる者は天井を得ると云云、天台大師御臨終の記に云く色白と云云、玄奘三蔵御臨終の記に云く色白と云云、一代聖教を定むる名目に云く、黒業は六道に止り、白業は四聖となる云云。

一、他宗謗法の行者は縦ひ善相有りとも地獄に堕つ可き事。

中正論【八 六十】に云く、縦ひ正念称名にして死すとも法華謗法の大罪在る故に阿鼻獄に入る事疑ひ無しと云云。

私に云く禅宗の三階は現に声を失ひて死す、真言の善無畏は皮黒く、浄土の善導顛倒狂乱す、他宗の祖師已に其れ此くの如し末弟の輩其の義知る可し、師は是れ針の如し弟子檀那は糸の如し、其の人命終して阿鼻獄に入るとは此れ也云云。

一、法華本門の行者は不善相なれども成仏疑ひ無き事。

安心禄十六問ふ若し臨終の時或は重病に依り正念を失却し、唱題すること能はず、空しく死亡せば悪趣に堕ちん哉。答ふ一たび妙法を信じて謗法せざる者は、無量億劫にも悪趣に堕ちず。

涅槃経に云く、四依品の会疏【六 十二】我れ涅槃の後若し此くの如き大乗微妙の経典を聞くことを得、信敬の心を生ずること有らん、当に知るべし是れ等は未来世百千億劫に於て悪道に堕ちず已上。二十巻徳行品会疏【二十 十八】若し衆生有り一経を耳に振れば劫後七劫悪趣に堕せず已上。涅槃尚然也、況や法華をや。経力甚深なる事仰で信敬すべし、況や提婆品に云く浄心に信敬し疑惑を生ぜざる者は地獄・餓鬼・畜生に堕せず、十方の仏前に生れん云云。信敬と云ふは五種の中には受持の行に当る、況や行を加へて妙法を唱へんをや、御書【十一 初】一期生の中に但だ一返の口唱すら悪道に堕ちず、深く信受すべし云云。

私に云く神力品に云く我が滅度の後に於て応さに此の経を受持すべし是の人仏道に於て決定して疑ひ有ること無し云云。

Posted by anaguma