「勅宣並びに御教書を申し下して」の手続をひた隠す日蓮正宗公式サイトの御遺命違背を破す

日蓮正宗公式サイトを見てみたら・・・

 先日、ふと「宗門(日蓮正宗)では、御遺命の戒壇について、いまどんな説明をしているんだろう」と思い、日蓮正宗の公式サイトを見てみました。すると、驚くべきことがわかりました。

 なんと、三大秘法抄における「勅宣並びに御教書を申し下して」との重大な手続を、まったく無視した内容になっているのです!

 具体的に見てみましょう。

戒壇建立の「手続」をひた隠しにする宗門

 日蓮正宗の公式サイトには、「御書解説」というコーナーがあります。その中に、「三⼤秘法稟承事」(三大秘法抄)の解説がありました。「おやおや・・・」と呆れつつ、解説を読んでいくと、「拝読のポイント」という項目に、次のように書かれていました。

 本門の戒壇には、事と義との立て分けがあります。義の戒壇とは、大聖人様が御図顕あそばされた御本尊や歴代の御法主上人猊下が書写あそばされた御本尊の安置される寺院・家庭等で、本門の本尊が在す所は、その意義がことごとく当たるとの意です。

 そして事の戒壇とは、まさに本抄の、

 「戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、(中略)霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり」

との文、また『日蓮一期弘法付嘱書』の文に示されます。これは王仏冥合という現実における広宣流布という時に約して建立されるべき戒壇で、その地は富士山本門寺であるとの御指南です。

http://www.nichirenshoshu.or.jp/page/jpn/p-deta/kyogaku/gosho/113.htm

 みなさん、お気づきでしょうか。

 宗門(日蓮正宗)は、「事の戒壇」の定義の部分で、三大秘法抄の御文を引用しつつ、1か所だけ「(中略)」としているのです。

 では、この「(中略)」の部分には、どんな御文があるのでしょうか。

 答えは、「勅宣並びに御教書を申し下して」の一文です。

 宗門は、三大秘法抄の御文を長々と引用しながら、この大事な一文だけを、あえて「(中略)」にして隠しているのです。

 いやはや、なんともハレンチな連中ですね。

 また、その後に続く解説でも、「御遺命の事の戒壇」について、「王仏冥合という現実における広宣流布という時に約して建立されるべき戒壇で、その地は富士山本門寺である」などと書いていますが、やはり、肝心の戒壇建立の「手続」については一切触れていません。

 これ、池田大作に与同し、正本堂の誑惑に加担して、憲法を至上として「国家意志の表明」による戒壇建立を否定してしまったために、今さら後に引き返せなくなっている姿にほかなりません。

 一体、どこまで御本仏の御遺命を蹂躙すれば気が済むのでしょうか。御本仏の御遺命と自分のメンツ、どちらが大事なのでしょうか。まったく、度し難い無道心の輩です。これを「師子身中の虫」というのです。

御遺命違背の大罪

 申すまでもなく、御遺命の事の戒壇とは、広宣流布の暁に、国家意志の表明を手続として、富士山天生原に建立される戒壇です。

 三大秘法抄の「勅宣並びに御教書を申し下して」の御定めは、まさしく「国家意志の表明」を戒壇建立の手続とせよ、ということにほかなりません。この手続のゆえに、「国立戒壇」と端的に呼称されてきたのです。

 しかるに宗門(日蓮正宗)は、偽戒壇・正本堂の誑惑に加担した大罪を改悔しないどころか、今なお御遺命の国立戒壇を否定し続けています。

 つまり、大聖人が御自ら定められた「勅宣並びに御教書を申し下して」の手続を無視し、歴代上人が異口同音に叫び続けてこられた「国家意志の表明」に基づく戒壇建立を未だに否定しているのです。だから、御遺命違背なのです

 たとえ時の貫首であっても、大聖人の御遺命に背けば無間地獄に堕ちること必定です。だから、細井日達は「ドス黒く、阿鼻獄を恐れ叫んでいるかのような相」の悪臨終だったのです。 (詳しくはこちらをご覧ください)

 もちろん、御遺命違背を知りながら、池田大作に諂い与同した宗門僧俗も同罪です。どうして現当二世の大罰を免れることができるでしょうか。

 ちなみに、日蓮正宗公式サイトの末文には、次のような一節があります。

 この御指南を拝する僧俗は、三大秘法の広宣流布と本門事の戒壇建立という御遺命の聖意を再確認し、今こそ自行化他にわたる妙法の実践に身命を賭していくべきです。

 正直、「何、寝言を言ってるんですか??」という感じです。

 宗門自体が御遺命の正義を否定し続けているのですから、宗門僧俗が「御遺命の聖意を再確認」することなど、できるはずがありません。

 ですから、たとえ彼らが職業坊主に唆されて「妙法の実践に身命を賭し」たとしても、一生成仏も、御遺命成就も叶いません。かえって深い罪障を積み、無間地獄に堕ちていくのです。

「勅宣並びに御教書を申し下して」の正義を示す

 最後に、「勅宣並びに御教書を申し下して」の正義について、浅井先生のご指導を拝してみましょう。

 次に戒壇建立の「手続」については、

 「勅宣並びに御教書を申し下して」と定められている。「勅宣」とは天皇の詔勅。「御教書」とは当時幕府の令書、今日においては閣議決定・国会議決等がこれに当ろう。まさしく「勅宣並びに御教書を申し下して」とは、国家意志の公式表明を建立の手続とせよということである。

 この手続きこそ、日蓮大聖人が全人類に授与された「本門戒壇の大御本尊」を、日本国が国家の命運を賭しても守護し奉るとの意志表明であり、このことは日本国の王臣が「守護付嘱」に応え奉った姿でもある

 御遺命の本門戒壇は、このように「勅宣・御教書」すなわち国家意志の表明を建立の必要手続とするゆえに、富士大石寺門流ではこれを端的に「国立戒壇」と呼称してきたのである。

 では、なぜ大聖人は「国家意志の公式表明」を戒壇建立の必要手続と定められたのであろうか。

 謹んで聖意を案ずるに、戒壇建立の目的は偏えに仏国の実現にある。仏国の実現は、一個人・一団体・一宗門だけの建立ではとうてい叶わない。国家次元の三大秘法受持があって始めて実現する。その国家受持の具体的姿相こそ「王仏冥合」「王臣受持」のうえになされる「勅宣・御教書」の発布なのである。

 もし国家意志の表明により建立された本門戒壇に、御本仏日蓮大聖人の法魂たる「本門戒壇の大御本尊」が奉安されれば、日本国の魂は日蓮大聖人となる。御本仏を魂とする国はまさしく仏国ではないか。「日蓮は日本の人の魂なり」「日蓮は日本国の柱なり」の御金言は、このとき始めて事相となるのである。

基礎教学書第9章「日蓮大聖人の御遺命」より

 いかがでしょうか。これが大聖人一期の御遺命の正義です。

 学会・宗門が一体となって正本堂の誑惑を進め、大事の御遺命がまさに破壊されんとしたとき、ただ一人、御遺命の正義を守り奉られ、いまその実現に向けて戦われている御方は、浅井先生以外にはおられません。だからこそ、浅井先生率いる顕正会には功徳の歓喜が満ち、素晴らしい「成仏の相」の現証が絶えないのです。なんとも有難いですね。

 ちなみに、「国立戒壇」に対する宗門の邪義については、「国立戒壇』に対する邪難を破す」という記事で破折していますので、興味のある方はそちらを御覧ください。