十界論(2)

こんな子いるかな?

 みなさんは「こんなこいるかな」というアニメをご存知でしょうか?昔、NHKのテレビ番組「おかあさんといっしょ」で放映されていた人気アニメで、個性あふれるキャラクターたちが登場します。

 こわがりやの「ぶるる」、くいしんぼうの「もぐもぐ」、しりたがりやの「なあに」、わらいんぼうの「げらら」、いつもしんせつな「はっぴ」・・・などなどです。

 「えーと・・・。顕正会についてのブログなのに、なんで『こんなこいるかな』の話になるの?」と思われた、そこのあなた!

 それは、このアニメが、「十界論」や「宿命転換」を理解するうえで、なかなか良いテキストと思われるからです(笑)

 前回の記事では、私たちの生命には、誰もが素質として十界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩・仏)を具えており、それが外界の縁に触れて湧現する、と書きました。

 ところが、過去世の宿業(行い)により、十界のうちのいずれかが、その人の生命に強く現われて生まれてくるというのです。この先天的な生命の傾向を「宿命」といいます。

 たとえば、こわがりやの「ぶるる」。もちろん、笑うことも、怒ることも、欲ばりな気持ちになることもあるでしょう。しかし、絵本を読むと、基本的にはいつも何かにおびえて「ぶるぶる」しています。これ、十界のうち「地獄界」の命が強いからです。

 あるいは、くいしんぼうの「もぐもぐ」は食欲旺盛で、朝から晩まで「むしゃむしゃぱくぱく」。きっと十界のうち「餓鬼界」が強いのでしょう(笑)

 このように見てみると、しりたがりやの「なあに」は「声聞界」、わらいんぼうの「げらら」は「天上界」、いつもしんせつな「はっぴ」は「菩薩界」・・・と、十界それぞれの傾向がよく現れていることがわかります。いやはや、なかなか深いアニメだったんですね(笑)このような先天的な生命の傾向を「宿命」というのです。

 さて、この宿命は、過去世の宿業(行い)によるものですから、ふつうは変えることができません。「三つ子の魂百まで」といいますが、先天的な生命の傾向は、常にその人の人生に付きまとうことになります。

 ですから、もし地獄界の傾向が強ければ常にいじめられ、餓鬼界の傾向が強ければ常に不満不足を感じる、ということになります。こわがりやの「ぶるる」でいえば、この先もきっと何かにおびえながら生きていく人生が待っているのでしょう(かわいそうな「ぶるる」・・・。)。

 そこに、いかなる宿命をも転換してくださる日蓮大聖人の仏法の有難さがあるのです。

 浅井先生のご指導を拝してみましょう。

宿命転換

 さて、以上の十界は、素質としては誰人の生命にも具わっている。ただし人は過去世の宿業により、十界のうちのいずれかが、その人の生命に強く現われ生れてくるこの先天的な生命の傾向宿命という。

 もし先天的に地獄界の傾向が強ければ、いずれの処にあっても常にいじめられ、また修羅の傾向が強ければ常に争いを起こすということになる。

 しかし、たとえ生涯苦しめられる地獄界の宿命を持っていたとしても、もし御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉れば、御本尊の縁にふれて仏界が湧現する。すなわち、その人の心に仏様が宿って下さり、必ず守られる幸福な境界に変ってくる。これが宿命転換である。

基礎教学書第3章より

 いかがでしょうか。このように、我が心に仏様が宿って下さることで、いかなる宿命をも変えて下さるのが日蓮大聖人の仏法の大功徳なのです。

宗教は心の問題?

 こう書くと、ちょっとひねくれた人は、「ふん、そんなこと言ったって、どうせ気休めでしょう!?しょせん宗教は心の問題。生活が変わるわけないじゃない!」と思われるかもしれません。

 しかし、仏法は決して単なる「気休め」ではありません。正しい信心をすることで、周りの環境も自然と変わってくるのです

 浅井先生のご指導を拝してみましょう。

依正不二

 依報(えほう)とは自分が住む環境世界、正報(しょうほう)とはその主体たる我が生命をいう。依報と正報との関係は、二つであってしかも一体、これを依正不二という。

 信心をすれば環境が変わり、友人・眷属が変わってくるのはこの原理である。もし自分の生命が地獄界ならば、環境も地獄界となって自分をいじめる働きに変わる。もし自分が修羅界ならば、自分の周囲には修羅界の仲間が集まる。これが依正不二である。

 ゆえにもし御本尊を信ずれば、三悪道・四悪道の友人・眷属はいつのまにか去り、共に三大秘法を持ち信心を励ましあう、清らかな菩薩界の同志が友となるのである。

基礎教学書第3章より

 いかがでしょうか。自分が住む環境世界と、自分の生命とは、何か別々のように思われます。しかし、実は一体不二の関係にあるのです。

 ですから、このことが本当にわかってくると、自分の不幸を他人や周囲のせいにはできなくなります。自分の周りの環境を作り上げているのは、自分自身の生命にほかならないからです。

 そこに、御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え、我が心に仏様が宿って下さることで、周りの環境にも変化を及ぼし、自然と守られる幸福な境界に変わってくるのです。なんとも有難いですね。

人心と国土の関係

 また、依正不二の原理は、個々人の生活だけに当てはまるものではありません。さらに大きく見れば、国土とそこに住む衆生との一体不二の関係でもあるのです。

 浅井先生は次のように指導くだされています。

 依正不二をさらに大きく見るならば、非情の国土と、そこに住む衆生との一体不二の関係となる。衆生は主体の生命であるから正報、国土は正報の依り所となるから依報である。

 「夫れ十方は依報なり、衆生は正報なり。依報は影のごとし、正報は体のごとし。身なくば影なし、正報なくば依報なし。又正報をば依報をもって此れをつくる」(瑞相御書)と。

 この大宇宙は一大生命体であり、その中のすべての存在は相互に関連し、影響しあっている。一つの変化は必ず他に変化を与える。よって、もし衆生の心が地獄界になれば、国土もまた地獄の相を現ずる。この原理により、謗法の国土には三災七難が競い起こるのである。

 「人の悪心盛(さかん)なれば、天に凶変・地に凶夭出来す。瞋恚の大小に随って天変の大小あり、地夭も又かくのごとし」(瑞相御書)と。

 もし広宣流布し、日本一同に南無妙法蓮華経と唱え奉り国立戒壇が建立されれば、日本は仏国となる。このとき国土また寂光土の相を現ずる。大聖人はその姿を

 「天下万民・諸乗一仏乗と成りて妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば、吹く風枝をならさず、雨壌(つちくれ)を砕かず、代は羲農の世となりて、今生には不祥の災難を払い、長生の術を得、人法共に不老不死の理(ことわり)顕われん時を各々御覧ぜよ。現世安穏の証文疑い有るべからざる者なり」(如説修行抄)

 と仰せられている。広宣流布・国立戒壇建立の意義の重大さがよくわかろう。

基礎教学書第3章より

 いかがでしょうか。「この大宇宙は一大生命体であり、その中のすべての存在は相互に関連し、影響しあっている。一つの変化は必ず他に変化を与える」との仰せには、あまりに広大な仏法のスケールに圧倒される思いです。まさに人心と国土を貫く大法則ですね。

 このことがわかれば、日本一同に南無妙法蓮華経と唱え奉る広宣流布、そして、その暁に国家意志の表明を以て建立される国立戒壇が、日本ないし世界の平和にとっていかに大事であるかがよくわかります。