竜の口法難

神も仏もいないのか?

よく「この世には、神も仏もいない!」という言葉を耳にします。

何かに絶望すると、人はついそのような思いを抱くのでしょうか。

もちろん、神(ゴッド)は架空の存在ですから、どこにもいません。

では、仏様も「いない」のでしょうか?

答えは、否です。

仏とは、神(ゴッド)のような架空の存在ではありません。

3000年前のインドの釈尊(お釈迦様)や700年前の日蓮大聖人のように、歴史上に実在されている御方です。

「でも、仏様って言ったって、フツウの人間と同じじゃないの?」と思われたそこのあなた!

・・・実は、違うんです(笑)

そうは言っても、仏様の甚深の御境界というのは、私たちには難しくてなかなかわかりません。

しかし、もし誰にもわかる厳然たる「現証」があれば、はたしてどうでしょうか?

それが、700年前に起きた「竜の口の大現証」です。

浅井先生のご指導を拝してみましょう。

竜の口法難

文永八年九月十二日の竜の口法難は、国家権力による絶体絶命の死刑であった。

だが、御頸まさに刎ねられんとした時、「月のごとく光りたる物」が突如出現し、太刀取りは眼くらんで倒れ臥し、警護の兵士たちも恐怖のあまり一斉に逃げ出してしまった。

砂浜に一人座し給う大聖人は高声に叫ばれた。

いかにとのばら、かかる大禍ある召人には遠のくぞ、近く打ち寄れや」と。さらに

頸切るべくは急ぎ切るべし、夜、明けなば見苦しかりなん」と仰せられた。

しかし返事をする者とてない。全員が腰をぬかしてへたり込んでしまったのだ。まさに国家権力が、ただ一人の大聖人の御頸を切ることができず、その絶大威徳の前にひれ伏してしまったのである。

このような思議を絶する荘厳な光景が、人類史上、どこにあったであろうか。

この大現証こそ、日蓮大聖人が、名字凡夫の御身の当体即久遠元初の自受用身と成り給いて成道を遂げられ、末法下種の本仏と顕れ給うた御尊容であった。このとき聖寿五十歳であられた。

この大法難について大聖人は開目抄に

日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ。此れは魂魄佐土の国にいたりて・・・」と仰せられている。

(平成31年の登用試験「問2」より)

いかがでしょうか。まさに大聖人は、目に灼きつく強烈な「事実」をもって下種御本仏の絶大威徳を見せてくださったのです。

このゆえに私たちは、理屈ぬきに日蓮大聖人を、御本尊を、信じ切ることができるのです。