顕正会が宗門末寺「本種寺」と「誠諦寺」に全面勝訴‼

正本堂を「御遺命の戒壇」と讃嘆していた大草一男の「処世術」

正本堂を「御遺命の戒壇」と讃嘆していた大草一男の「処世術」

 顕正新聞8月5日号「顕正会こそ諫臣・争子」特集号に、大草一男に関するおもしろい記事が掲載されていました。

 記事では、法務部次長でもある菅原教学委員が、妙観講の大草一男が正本堂を「御遺命の戒壇」と讃嘆していた過去を暴露しています。

 私自身、つい最近まで「大草一男」ってどんな人物か、全然知らなかったのですが、やっぱり宗門の人間ですから、偽戒壇・正本堂を「御遺命の戒壇」と讃嘆していたようです。

 そこで、今回の記事では、かつて正本堂を「御遺命の戒壇」と讃嘆していた大草一男が、自らの言説をどのように変節させていったかを見てみたいと思います。

正本堂を「御遺命の戒壇」と讃嘆していた大草一男

 池田大作の権力と金力にへつらった宗門(日蓮正宗)は、時の貫首をはじめ、偽戒壇・正本堂を「御遺命の戒壇」と讃嘆し、国立戒壇を否定しました。これに異を唱え、「御遺命守護の戦い」に身を捨てて立ち上がったのは、浅井先生ただ御一人です。

 このとき、大草一男は何をしていたかというと、彼は学会・宗門の言うままに、偽戒壇・正本堂を「御遺命の戒壇」と讃嘆していました。

 菅原教学委員は、次のように指摘しています。

 浅井先生が必死護法のご決意で「御遺命守護の戦い」に臨まれたのに対し、大草は、正本堂の誑惑について呵責するどころか、昭和六十三年十月には偽戒壇・正本堂を擁護するタバカリを並べた悪書「摧破異流義考」を発行し、正本堂を讃嘆していた(ちなみに、この「摧破異流義考」という名称は、親鸞を讃嘆した悪僧・花野充道が書いた「異流義摧破考」をひっくり返しただけである)。

 この悪書の中で、大草は、正本堂の意義について次のように述べている。

 「まさに大石寺正本堂は御宝蔵・奉安殿等とは異なり、やがて広布の時至れば大本門寺本堂たるべき堂宇である

 「本門戒壇の大御本尊まします我が日蓮正宗富士大石寺こそ、本門事の戒壇の根源にして、広布達成の暁においては、『一期弘法抄』『三大秘法抄』に御示しの意義を顕現する大本門寺戒壇なのである」(同書二十二頁)と。

 このように、大草も池田大作と同様に、正本堂は「御宝蔵・奉安殿等とは異なり」、御遺命の戒壇に当たる旨の悪言を堂々と吐いていたのである。

顕正新聞「顕正会こそ諫臣・争子」特集号

 いかがでしょうか。大草一男が偽戒壇・正本堂を御遺命の戒壇になる建物と断定・讃嘆していたこと、誰の目にも明らかですね。

 日蓮大聖人は「三大秘法抄」に、御遺命の戒壇について、王仏冥合・王臣受持の時、「勅宣・御教書」すなわち国家意志の公式表明を手続として建立せよと厳格に定められています。かかる御本仏の御定めを無視し、広布以前に宗門だけで建てた偽戒壇・正本堂を「御遺命の戒壇」と讃嘆する所行は、まさに大聖人の御遺命に背く大謗法といわなければなりません。

正本堂崩壊後の変節

 このように、宗門僧俗あげて「御遺命の戒壇」と讃嘆していた正本堂は、浅井先生の強き諫暁と諸天の働きにより、平成10年、ついに崩壊しました。つまり、正本堂が日蓮大聖人の御遺命の戒壇ではなかったことが、ここに明らかとなったのです。

 そうすると、このニセモノの建物を「御宝蔵・奉安殿等とは異なり、やがて広布の時至れば大本門寺本堂たるべき堂宇」、「『一期弘法抄』『三大秘法抄』に御示しの意義を顕現する大本門寺戒壇」と讃嘆していた大草一男としては、立場がなくなります。なんとか無かったことにしたいと思っても、彼の言説は、自分で書いた本の中にハッキリと残ってしまっています。

 そこで大草は、自分の本の記述を「変更」することにしました。具体的には、正本堂が崩壊した直後の平成10年11月20日、「新編・摧破異流義考」なる本を発行し、次のように書き換えたのです(同書四十八及び四十九頁)。

 「大石寺正本堂は、近年における急速な広布進展の相に鑑み、やがて広布の時至れば大本門寺本堂となることを期して建てられた、今日の大石寺の本堂としての堂宇である

 「本門戒壇の大御本尊まします我が日蓮正宗富士大石寺こそ・・・大本門寺戒壇の前身なのである

 「・・・あれっ、前には正本堂を御遺命の戒壇になる建物と断定していたのに、新編では『ことを期して』とか、『前身』とかが追加されてる・・・?」と思われた、そこのあなた!

 はい、そのとおりなんです(笑)

 菅原教学委員は、次のように鋭く指摘しています。

 整理すると、大草は、正本堂崩壊以前、正本堂を「御宝蔵・奉安殿等」とは異なる「大本門寺本堂たるべき堂宇」、つまり〝前以て建てておいた御遺命の戒壇〟と断定・讃嘆していた。

 ところが正本堂が崩壊した途端、大草は辻褄を合せるように、正本堂は〝前以て建てておいた御遺命の戒壇〟ではなく、〝将来的に御遺命の戒壇になってほしいと期待して建てただけ〟と、いけしゃあしゃあと自説を変更したのである。

顕正新聞「顕正会こそ諫臣・争子」特集号

 いかがでしょうか。みごとな変節ぶりですね。

「転載」といって修正済みの文章を再び掲載

 しかし、さらに驚いたのは、妙観講がこの修正済みの文章を、なんと当初の本からの「転載」と偽って再び掲載した、ということです。

 どういうことかというと、彼らは、妙観講が発行する冊子「暁鐘」(令和2年1月号)に、先ほど見たような修正を加えた「新編・摧破異流義考」(平成10年11月)に更なる修正を加えた文章を掲載しました。いわば「新・『新編・摧破異流義考』」ですね(笑)

 ところが「暁鐘」には、なんと「昭和六十三年十月『暁鐘』別冊号より転載」と書かれているというのです。

 菅原教学委員は次のように指摘しています。

 「転載」とは、既刊の印刷物の文章などを写し取って、そのまま他の刊行物に載せることをいう。修正した文章を載せることを「転載」とは言わない。

顕正新聞「顕正会こそ諫臣・争子」特集号

 いやはや、なんとも痛烈ですね(笑)

大草一男の「処世術」

 最後に、これまで見てきた大草一男の変節ぶりをまとめてみましょう。端的にまとめると、こうなります。

① 昭和63年10月の「摧破異流義考」では、正本堂を御遺命の戒壇になる建物と断定・讃嘆していた。

② しかし、正本堂が崩壊すると、その直後の平成10年11月、「新編・摧破異流義考」で〝将来的に御遺命の戒壇になってほしいと期待して建てただけ〟という趣旨に書き換え、自説を変更した。

③ 令和2年1月の「暁鐘」に、②の修正済みの文章を掲載しつつ、「昭和六十三年十月『暁鐘』別冊号より転載」と付記した。

 いかがでしょうか。このようなステップを踏むことで、大草一男が正本堂を「御遺命の戒壇」と讃嘆していた過去が隠され、まるではじめから正本堂を御遺命の戒壇とは断定していなかったかのように読者に思わせることができます。

 きっと直近の「暁鐘」しか読まない妙観講員たちは、「ああ、これは昭和63年に『暁鐘』別冊号として発行された『摧破異流義考』を、そのまま転載したものなんだな」と思い込むことでしょう。

 すると、顕正会員から、「大草一男も、昭和63年の本で、正本堂を御遺命の戒壇と讃嘆し、御遺命に背いていたんですよ」と指摘されても、「ふん、そんなのウソだ!ほら、この『暁鐘』を見てみろ!当初の冊子から『転載』された文章を見ても、大草講頭は正本堂について、御遺命の戒壇になることを『期待して』建てられたにすぎないと仰っているじゃないか。さすがは大草講頭、未来のことをちゃんと見通してらっしゃったのだ!やっぱり顕正会員はウソつきだ!」なんて、全く悪気もなく勘違いする妙観講員がいるかもしれません。いやはや、なんとも不憫ですね。

 また、大草は日蓮正宗法華講の大講頭という、大勢の信徒を指導する立場にあるようですから、彼の変節を知らず、発行された本の内容をうのみにして、正本堂や御遺命について誤解する人たちが出てきては大変です。

早く御遺命の正義に立ち還らなければなりません

 日蓮大聖人は四条抄に、「吾一門の人人の中にも信心もうすく、日蓮が申す事を背き給はば蘇我が如くなるべし」と仰せです。「日蓮が申す事」の中に、御遺命ほど重大なことはありません。

 また、顕立正意抄には、「我が弟子等の中にも信心薄淡(うす)き者は、臨終の時阿鼻獄の相を現ずべし」との厳しき仰せがあります。

 後生を恐れる道念ある宗門僧俗は、早く御遺命違背の大罪を深く懺悔し、国立戒壇の正義に立ち還らなければなりません。

 今回の記事を通して、一人でも多くの人たちが宗門の犯した御遺命違背の大罪に気づき、御遺命の正義に目覚めることを願ってやみません。

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