日蓮大聖人と釈迦仏の関係(2)

「最近の若いモンは・・・!」

 「日蓮大聖人の仏法」の広告文が、いま全国で広く配布されています。広告文の配布って、ほんとうに楽しいですよね!大聖人の大恩徳、仏法の有難さを讃嘆させて頂くから、歓喜と生命力が湧いてきます。

 ところで、配布をしていると、ちょっと仏教に詳しそうなおじさんから、「まったく最近の若いモンは・・・!仏といったら釈迦に決まってるだろう。経典のどこに『日蓮大聖人』の名前が出てくるんだ!?」などと言われることがあります。

 たしかに、経文には「日蓮大聖人」のお名前は出てきません。でも、よくよく見ると、実は日蓮大聖人の御事がちゃんと経文に説かれているのです!

 浅井先生のご指導を拝してみましょう。

釈迦仏の予言証明

 久遠元初の御本仏が末法に出現されるとあれば、釈迦仏にとってこれほど重大なことはない。よって、その御化導を前もって予言し証明することは、釈迦仏の一大使命でもある。

 この重大事が説かれているのが法華経である。法華経は、一応は釈尊在世の弟子たちの得脱のためであるが、再応深くこれをみれば、日蓮大聖人の御化導を予言証明するために説かれた経なのである。

 では、それがどのように説かれているかといえば―

 まず勧持品においては、末法において法華経の肝心たる南無妙法蓮華経を弘めれば、必ず「悪口罵詈」「及加刀杖」「数々見擯出」といって、国中から悪口をいわれたり、刀で切られ杖で打たれたり、あるいは幾たびも流罪にあうことが説かれている。これは日蓮大聖人が受ける大難を、予言証明したものである。

 次いで涌出品では、釈尊の高位の弟子すら未だかって見たこともないという、巍々堂々たる上行菩薩を上首とする、おびただしい数の地涌の菩薩が大地の底より召し出される。この上行菩薩こそ、実は久遠元初の本仏の、法華経会座における仮の姿である。

 そして釈尊は、いよいよ寿量品の文底に三大秘法を説き顕わし、神力品においてこの三大秘法を上行菩薩に付嘱し、末法における弘通を証明している。

 この神力品の付嘱の儀式は、釈尊一代五十年の説法においても例を見ない荘厳なもので、この一事からも、釈尊が上行菩薩への付嘱、すなわち日蓮大聖人の末法弘通の証明をいかに重大視していたかが窺われる。

 釈尊はさらにこの神力品において、上行菩薩が末法の衆生を救い切るその徳を讃嘆して、次のように述べている。

 「日月の光明の 能く諸の幽冥を除くが如く、斯の人 世間に行じて、能く衆生の闇を滅せん」―太陽や月の光りが地上のあらゆる闇を除くように、この上行菩薩こそ末法の衆生の苦悩をよく滅する人である―と。

 日蓮大聖人は、このように釈尊の予言証明に照らされて末法に出現された、久遠元初の下種の本仏であられる。

「日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ」(平成16年の諌暁書)

 いかがでしょうか。なんとも明快なご指導ですね!

 釈尊(釈迦仏)は法華経において、「上行菩薩」という御方が末法の一切衆生をお救い下さることを予言証明されました。その上行菩薩こそ、実に日蓮大聖人なのです。

上行菩薩=日蓮大聖人

 「ちょっと待って!たしかに法華経には『上行菩薩』のことが説かれてるのかもしれないけど、どうしてそれが日蓮大聖人だってわかるの?もしかしたら別の人かもしれないでしょう?」と思われた、そこのあなた!!

 ・・・とっても良い質問だと思います(笑)

 なぜ日蓮大聖人が「上行菩薩」の再誕だとわかるのでしょうか。それは、釈尊(釈迦仏)の予言にピタリと当てはまっているからです。

 浅井先生のご指導を拝してみましょう。

 では、日蓮大聖人を上行菩薩の再誕とは、何によって知ることができるのかといえば、勧持品を色読されたことによる。

 前述のごとく、釈尊は勧持品において上行菩薩が受けるべき大難を「悪口罵詈」「及加刀杖」「数々見擯出」と示し、もし末法において、法華経の肝心たる南無妙法蓮華経を弘めてこの大難を受ける人あらば、その人こそ上行菩薩であると説き示した。

 釈尊滅後二千余年、全世界において、このような大難を受けた人がどこにいようか。

 ただ日蓮大聖人御一人であられる。

 ゆえに開目抄には

 「抑(そもそも)、たれやの人か衆俗に悪口罵詈せらるる、誰の僧か刀杖を加へらるる、誰の僧をか法華経のゆへに公家武家に奏する。誰の僧か数々見擯出と度度ながさるる。日蓮より外に日本国に取り出さんとするに人なし」と。

 されば大聖人こそ上行菩薩その人であられる。

基礎教学書・日蓮大聖人の仏法「第六章 日蓮大聖人と釈迦仏の関係」

 いかがでしょうか。日蓮大聖人が上行菩薩の再誕であられることがよくわかりますね。

内証(本当の御立場)は久遠元初の御本仏

 さて、ここまで読んで下さった方の中には、「へえ、そうなんだ!日蓮大聖人は上行菩薩の再誕なんだね。でも、そうすると、日蓮大聖人は仏様じゃなくて『菩薩』ってことなの?」と思われた方がいるかもしれません。

 実は、ここに甚深の御法門があるのです。ですから、これを知らない不相伝の日蓮宗などは、大聖人のことを「菩薩」だと思い込んでいます。

 ここでは結論だけ書きます(詳しくは、基礎教学書「第1章」をご覧ください)。

 日蓮大聖人は、外用(経文に準じた表面上の立場)は上行菩薩ですが、その内証(本当の御立場)は、「久遠元初の自受用身」という一番大もとの仏様なのです

 引き続き、浅井先生のご指導を拝してみましょう。

 大聖人こそ上行菩薩の再誕その人であられる。

 ただし、これは経相に準じた外用の辺である。もし内証の深秘を拝せば、大聖人の御振舞いは、久遠元初の自受用身の御振舞いを、そのまま末法に再現されたもの。まさしく行位全同である。よって日蓮大聖人こそ久遠元初の自受用身の再誕であられる。

 ゆえに日寛上人は文底秘沈抄に

 「若し外用の浅近に拠れば、上行の再誕日蓮なり。若し内証の深秘に拠れば、本地自受用の再誕日蓮なり。故に知りぬ。本地は自受用身、垂迹は上行菩薩、顕本は日蓮なり」と。

 まさに外用上行菩薩内証久遠元初の自受用身、かかる尊貴の御仏の出現を、釈迦仏は法華経において予言・証明したのであった。

基礎教学書・日蓮大聖人の仏法「第六章 日蓮大聖人と釈迦仏の関係」

 いかがでしょうか。日蓮大聖人がいかに尊貴な御本仏であられるかがよくわかり、思わず恋慕渇仰の思いが湧いてきますね。

 この日蓮大聖人を信じ奉るか、背くかによって、日本国の有無も、人類の存亡も決します。これが「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」(下種本仏成道御書)と仰せられる御本仏の重き重き大境界なのです。