「上野殿御返事」講義に拝する御在世の信心

「火の信心」と「水の信心」

 顕正新聞3月25日号に掲載された「御書要文拝読」は本当に有り難く、何度も拝読しています。

 浅井先生は、建治4年2月25日の「上野殿御返事」を引かれ、次のように指導下さいました。

 値いがたき日蓮大聖人の仏法に値い奉っても、一時的な感激だけですぐ退転するような「火の信心」では成仏は叶わない。

 いかなる妨害があろうとも、退かず、臨終の夕べまで信心を貫く「水の信心」で、始めて成仏させて頂けるのである。

 上野殿は十六歳の若き日より七十四歳の臨終の夕べまで、ただ日蓮大聖人を恋慕渇仰し、不惜身命の御奉公を貫かれた、仏弟子の鑑(かがみ)である。

 以下、上野殿の強き信心、偉大な御奉公を拝見する。

顕正新聞令和2年3月25日号

 いま新型コロナウィルスの感染拡大により、人々は怯え、経済は大打撃を受け、日本も世界も先の見えないトンネルのような状態が続いています。

 その中、激務の合間に筆を執られ、会員一人ひとりを励まさんと、今回の講義を下された浅井先生の御心を思うと、有難くて涙が出てきます。

 私も上野殿を鑑(かがみ)として、恋慕渇仰・不惜身命の「水の信心」に立っていきたいと、改めて思いました。

上野殿の御奉公

 それにしても、上野殿という方は、いったいどのような立場の御方なのでしょうか。今回、上野殿の御奉公をはじめて詳しく教えて頂きましたが、その宿縁の深さと捨身の御奉公には、ただ驚くばかりです。

 上野殿が大聖人にお目にかかったのは、幼少の折の一度か二度だけでした。その後、大聖人は法難に次ぐ法難で、音信は全く途絶えてしまいました。普通なら、信心を忘れて退転して当り前ですよね。

 ところが上野殿は、その間も、大聖人を一念も忘れ奉らず、大聖人が佐渡からお帰りになって身延に御入山されたことを耳にされるや、大歓喜して、直ちに真心の御供養を捧げまいらせたのです。

 そして上野殿は、その後、あの熱原の法難をはじめ、命かけての御奉公に突入していきます。

 浅井先生は、「その宿縁の深さ、内薫力の強さには、ただ驚嘆のほかはない」と仰せですが、本当に凄い信心ですね。

 弘安2年9月、熱原の法難が起こりました。これは富士熱原地方において日蓮大聖人を信じ奉る「法華講衆」という農民たちに対し、幕府が無実の罪を着せて弾圧を加え、退転させようとしたものです。

 当時の最高実力者・平左衛門は、逮捕した法華講衆20人をわざわざ鎌倉まで押送させ、自邸の庭に引き据え、「汝ら、日蓮房の信仰を捨てて念仏を唱えよ。さすれば故郷に帰すであろう。さもなくば頸を刎ねる」と脅しました。普通なら退転して当り前です。

 ところが法華講衆20人は一人も臆せず、一死を賭して「南無妙法蓮華経」と唱え奉り、答えに替えたのでした。

 憤怒した平左衛門は、法華講衆に対して蟇目の矢を射させて脅しました。しかし、一人として退する者はなく、かえって一矢当るごとに、唱題の声は庭内に響きました。

 あまりのことに驚愕した平左衛門は、法華講衆の代表3人を引き出し、ついにその頸を刎ねたのでした。

 しかし、平左衛門は、3人の肉身は壊せても、日蓮大聖人に南無し奉る信心は壊せなかったのです。浅井先生は、「法華講衆の『一心に仏を見奉らんと欲して自ら身命を惜しまず』の信心は、理不尽な国家権力に打ち勝ったのである」と仰せですが、その不惜身命の信心には、思わず涙が込み上げます。

 大聖人は、この事態を日興上人の急報により知り給い、深く深く御感あそばされ、神四郎等法華講衆を「願主」として、御一代の最大事・出世の御本懐たる「本門戒壇の大御本尊」を建立あそばされました。

 この熱原の法難に際し、地元の地頭でもある上野殿の振る舞いは、まさに一命を賭しての御奉公でした。

 浅井先生の御指導を拝してみましょう。

 上野殿は法華講衆が捕縛されたと聞くや、直ちに自邸を対策拠点として、今後さらに捕縛されるであろう法華講衆の人々を自邸の奥深くに匿まい、ことに幕府に狙われていた日秀・日弁等は富木殿のもとに送って匿わせ、また現地で指揮を執られる日興上人の隠れ家まで用意した。

 さらに幕府に対しては、不法処分の取り消しを求め、捕縛された二十人が不当な処分を受けないよう積極的に動いた。

 これらの行動は、まさに幕府の怒りを買うことを覚悟しての、捨て身の戦いであった。このとき上野殿二十一歳。

 大聖人様は大法難直後の弘安二年十一月六日の「上野殿御返事」において、上野殿の不惜身命の御奉公を賞嘆し給うとともに、その文末に

 「上野賢人殿御返事

 と認められ、さらに

 「此れは熱原の事のありがたさに申す御返事なり

 と記し給うておられる。

 この「賢人殿」のお文字について堀日亨上人は

 「大聖人御一代に、唯一度だけしか用いられない、稀な御文字

 と評されている。以て大聖人様の深き御意を拝し奉るべきである。

顕正新聞令和2年3月25日号

 いかがでしょうか。わずか21歳で、これほどの御奉公を命かけてなし遂げられた上野殿の信心には、ただ驚嘆のほかありません。

 そして、大聖人が上野殿に対してのみ、たった一度だけ用いられた「賢人殿」とのお文字を拝しては、出世の本懐成就を助けまいらせた上野殿の御奉公の重大さとともに、その仏法上の立場のただならざるを感じずにはいられません。

 その後、幕府は上野殿に対して不当な重税を課し、大圧迫を加えてきました。ために南条家(上野殿の一家)は極度の経済的窮迫に陥ります。しかし、その中でも上野殿は、身延山中の大聖人を思い、赤誠の御供養を続けられたのです。

 弘安3年12月の「上野殿御返事」には、上野殿が、地頭でありながら乗る馬さえなく、妻子に着せる着物すら事欠いたこと、しかし、その中でも、大聖人が身延山中の雪に責められ、食が乏しいのではないかと案じて、真心の御供養を続けられたこと、それに対して大聖人が「尊し、尊し」と称賛あそばされたことが記されています。

 浅井先生は、「何と有難い御文か。ただただ涙があふれてくる―」と仰せられています。この真心の御供養の功徳か、上野殿は晩年には大長者となられたのです。

 最後に、浅井先生は、次のように指導下されています。

 上野殿は、大聖人御入滅後は日興上人を唯一の師と仰ぎ、その身延離山に際しては、自領内の大石ヶ原を提供し、大石寺建立には資力を尽くしている。

 大石寺建立以後は日興上人・日目上人の御化導が四十二年間続く。その御化導を外護しつつ、上野殿は、日興上人・日目上人が御遷化あそばされた前年の正慶元年、大聖人様がお待ちあそばす寂光の宝刹へと旅立たれた。

 まさに上野殿こそ冨士大石寺信徒の鑑である。

 いま広布前夜の濁悪の世に生まれ合わせた我らこそ、この上野殿の大忠誠を今に移し、大聖人様への一筋の御奉公を貫かなければいけない。

顕正新聞令和2年3月25日号

御在世の信心

 今回の講義を拝読し、有難さに包まれる中に改めて強く感じたことは、「御在世の信心」ということでした。

 御在世の門下の方々を拝見すれば、熱原の法華講衆といい、上野殿といい、みな日蓮大聖人を恋慕渇仰し、たとえ国家権力による迫害があろうとも、命を賭して信心を貫かれたことがよくわかります。

 これが御在世の信心であり、この純粋・捨身の信心こそが、大聖人の御心に叶い、出世の御本懐たる「戒壇の大御本尊」の願主にもなられたのです。

 ひるがえって今の宗門(日蓮正宗)を見れば、僧侶は堕落して折伏もせず、「登山、登山」と言って御開扉料稼ぎに狂奔しています。また、法華講員たちは広宣流布の確信も情熱もなく、身を捨てて折伏弘通に励む気概は微塵もありません。ただ家でゴロゴロして過ごし、たまに参詣する程度の典型的な「墓檀家」ばかりでしょう。「未だ広宣流布せざる間は身命を捨てて随力弘通を致すべき事」との日興上人の御遺誡に違背する、無智無行の者だらけです。これでは広宣流布は到底叶いません。まして、彼らは大聖人一期の御遺命に背いているのですから、入阿鼻獄は必定です。

 そこに広布前夜の今、学会・宗門がことごとく大聖人の御遺命に背き師敵対に陥る中、浅井先生率いる顕正会だけに「広宣流布、朝夕近し」の大情熱と、恋慕渇仰・不惜身命の熱烈な信心が漲っていること、ただ驚くばかりです。御遺命を守り奉ったゆえに下された理不尽な解散処分によって、かえって顕正会には、あの純粋・熱烈な「御在世の信心」が漲り、全員が功徳を頂き、一生成仏を遂げながら、広宣流布に戦う唯一の仏弟子の大集団となって、日本国を独走しているのです。

 いま浅井先生のもと、大聖人の御心に叶う「御在世の信心」に立たせて頂ける有難さを胸に、私も一生成仏と広宣流布を見つめ、御奉公に励んでいきたいと思います!