「立正安国論」の肝要を拝し奉る(3)

「立正」って何ですか?

 これまでブログをお読み頂いた方には、「立正安国論」こそ、日蓮大聖人が理論と現証の一致をもってご教示下された、未来永遠にわたる国家安泰・世界平和の一大明鏡であることをおわかり頂けたことと思います。

 国家の安泰、世界の平和は、みんなが求めて止まないものです。これを実現する方法を、理論だけでなく、「現証」をもって見せてくださったのが「立正安国論」であれば、これはもう全人類が拝読すべき一大重書ですよね。

 ところが、ここで1つ、大きな問題があるんです。

 それは、「じゃあ『立正』って、具体的に何をどうすればいいの?」ということです。

 たしかに、これがわからないと始まりません。でも、ほとんどの人は、この「立正」とは何かを知らないんです。ですから、「うーん、まあ、とりあえず何か正しいことをすればいいんじゃない?」とか、「人に優しく、地球に優しく!」とか、「フフフ、実は法華経を崇めることなんですよ・・・」とか、みな間違えてしまうのです。

 では、大聖人が仰せられる「立正」とは、一体どのようなことなのでしょうか?

 浅井先生は、冨士大石寺第26世・日寛上人のご指南を引いて、次のように指導くだされています。

「立正」とは国立戒壇の建立に尽きる

 日寛上人は次のごとく仰せられている。

 「初めに本門の本尊に約せば、『正』とは妙なり、妙とは妙法蓮華経なり、妙法蓮華経とは即ち本門の本尊なり。ゆえに顕仏未来記に云く『本門の本尊・妙法蓮華経の五字』等云々。『立』とは此の本尊を立つるなり。ゆえに観心本尊抄に云く『此の時地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし』と。

 次に本門の題目に約せば、題目に信行の二意を具す。行の始めはこれ信心なり。信心の終わりはこれ行なり。すでに正境に縁するゆえに信心即ち正なり、信心正なるゆえにその行即ち正なり。ゆえに題目の修行を名づけて『正』となすなり。『立』とは即ち行を立つるなり。

 三に本門の戒壇に約せば、およそ『正』とは一の止まる所なり。一は謂く、本門の本尊なり。これ即ち浮提第一の本尊なるがゆえなり。またこれ一大事の秘法なるがゆえなり。ゆえに本尊を以て一と名づくる者なり。止はこれ止住の義なり、すでにこれ本尊止住の処なり、あに本門の戒壇に非ずや。『立』とは戒壇を立つるなり。御相承に云く『国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ』等云々」と。

 以上、「立正」の二字に三大秘法を含むことまことに明らかである。そして三大秘法の随一は本門戒壇の大御本尊であり、この大御本尊を国立戒壇に安置し奉ることこそ、大聖人の究極の大願であられれば、まさに「立正」とは国立戒壇の建立に尽きるのである。

令和2年・教学部三級試験問題「問3」

 いかがでしょうか。このように「立正」の二字には、日蓮大聖人の「三大秘法」が含まれているのです。

 そして、三大秘法の随一は「本門戒壇の大御本尊」であり、この大御本尊を、広宣流布の暁に、国家意志の表明を以て建立された本門戒壇、すなわち「国立戒壇」に安置し奉ることこそ、大聖人の究極の大願であり、門下に遺された唯一の御遺命です。このときはじめて日本は仏国となり、真の安泰を得るのです。

 つまり、「立正」とは、詮ずるところ国立戒壇の建立に尽きるのです。

 広布前夜のいま、学会・宗門は魔に誑かされて、大聖人の唯一の御遺命たる国立戒壇建立を抛ち、偽戒壇・正本堂を建てて「御遺命の戒壇」と讃嘆しました。そして、大聖人の厳たる御裁断により正本堂が崩壊した後も、未だに国立戒壇だけは否定し続けています。だから、彼らには「立正」の御聖意がわからず、その実現も到底できないのです。

 いま浅井先生のもと、大聖人の御心のままに、御遺命成就のお手伝いが叶うことは、なんと有難いことでしょうか。

 「まことに、広宣流布・国立戒壇建立をめざして折伏弘通に励むことこそ、立正安国の実践である」(立正安国論謹講)との浅井先生のご指導を心腑に染め、ますます歓喜のご奉公に励んでいきたいと思います!