「『観心本尊抄』の大意を拝し奉る」が有難い!

最重要御書・観心本尊抄の「大意」がわかる!

 顕正新聞令和元年8月25日号に、またまた有難い記事が掲載されていました。その名も「『観心本尊抄』の大意を拝し奉る」! 浅井先生の「観心本尊抄」についてのご指導です。

 最近は、「日興上人『原殿御返事』拝読」といい、浅井先生から直々に顕正新聞紙上で重要なご指導を頂けること、なんとも有難いですね。

 実は、私も以前、「観心本尊抄」の講義録を拝読したことがあるのですが、それはそれは難しかったと記憶しています。そこに今回、浅井先生が日寛上人の御指南を、さらにわかりやすく噛み砕いて教えてくださったことで、御書四百余篇中の最重要書「観心本尊抄」の「大意」を、誰もがほしいままに拝することができるとは、なんと有難いことでしょうか。

 今回の記事では、浅井先生の「『観心本尊抄』の大意を拝し奉る」のうち、私が特に「有難いなー」と感じたところを紹介していきたいと思います!

題号の読み方と意味

 さて、「いざ拝読!」とはりきってみたものの、まずブチ当たるのが題号の読み方です。「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」という漢字の羅列を見て、「いったい、どうやって読むんだろう??」と挫折しそうになった方がいるかもしれません。

 しかし、ご安心ください!実はあの不世出の大学匠・日寛上人が、ちゃんと読み方(文点)を教えてくださっているのです。いわく、「如来の滅後五五百歳に始む観心の本尊抄」。これでもう迷いませんね(笑)

 では、この題号はいったいどんな意味なのでしょうか。日寛上人は、「如来の滅後五五百歳に上行菩薩始めて弘む 観心の本尊抄」と御指南くだされています。

 「うーん、わかったような、わからないような・・・」と思われた、そこのあなた!・・・ご安心ください(笑) 浅井先生が、より端的にわかりやすく、次のようにお教えくだされています。

 「上行菩薩」とは外用・教相に準じての名であり、内証深秘より拝せば、実に久遠元初の自受用身たる日蓮大聖人の御事である。ゆえにこの題意を端的に宣べさせて頂けば、「末法の始めの五百年に、久遠元初の自受用身出現して、始めて弘む、一切衆生成仏のための、本門戒壇の大御本尊の御抄」であると謹んで拝し奉る。

顕正新聞令和元年8月25日号

 つまり、末法のはじめに日蓮大聖人が始めて弘めてくださる「本門戒壇の大御本尊」の御抄ということですね。

 浅井先生は、さらに本質をつき詰められて、ズバリ、「観心本尊抄は実に『本門戒壇の大御本尊の御抄』なのである」と指導くだされています。

 要するに、「観心本尊抄」は、本門戒壇の大御本尊の無量無辺・広大深遠の功徳と、その所以を明かされた御書なのです。ゆえに大聖人御自ら「日蓮当身の大事」と仰せられています。

人法体一の御本尊

 では、本門戒壇の大御本尊とは、一体どのような御本尊なのでしょうか。浅井先生は、日寛上人の「観心本尊抄文段」に基づき、次のように指導くだされています。

 この御本尊に「」と「」がある。人の本尊とは、久遠元初において透徹の深智を以て生命の極理を証得し給うた自受用報身である。また法の本尊とは、久遠元初に名字凡夫の位において証得したところの妙法、すなわち事の一念三千の南無妙法蓮華経である。

 この時、法を尋ねれば人の外に別の法は無く、人の全体がそのまま法である。またこの時、人を尋ねれば法の外に別の人は無く、法の全体がそのまま人である。

 人と法とその名は異なるがその体は恒に一である。これを人法体一という。

 だが体一であっても、人と法とは明瞭である。まさに知るべし、観心本尊抄は「人即法の本尊」の御抄、すなわち戒壇の大御本尊の御抄なのである

顕正新聞令和元年8月25日号

 いかがでしょうか。まさに仏法の一番深い部分の一端を拝する思いとなり、大感激ですよね!

 久遠元初の自受用身たる日蓮大聖人と、大聖人が証得された妙法・事の一念三千の南無妙法蓮華経とは、その体は恒(つね)に一つなのだと-。

 まさしく戒壇の大御本尊は、日蓮大聖人の御当体そのものであられると拝し奉るものです。

戒壇の大御本尊になぜ無量無辺の大功徳がましますのか?

 この戒壇の大御本尊には、「無量無辺」、つまり無限(∞)の大功徳がましますといわれています。では、なぜそれほどの大功徳がましますのでしょうか?その所以について、浅井先生は、日寛上人の御指南に基づき、次のように指導くだされています。

 この大宇宙には、インドに出現した釈迦仏のごとく、三十二相で身を荘厳った熟脱の仏は、星の数ほど無数に存在する。これらの仏を十方三世の仏という。

 この十方三世の諸仏は、ことごとく久遠元初の自受用身一仏の垂迹であり、みな文底下種の御本尊を種として仏に成ったのである。

 ゆえに秋元御書には「三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏に成り給へり」と。

 よって十方三世の諸仏の功徳も、これら諸仏が説いた無数の経々の功徳も、すべては文底下種の本尊すなわち本門戒壇の大御本尊に帰する。

 ゆえにこの大御本尊の功徳は無量無辺で広大深遠の妙用すなわち「祈りとして叶わざるはなく」等の大功徳がましますのである。

顕正新聞令和元年8月25日号

 いかがでしょうか。過去・現在・未来の三世、永遠にわたって広漠の宇宙に存在する無数の仏たち、そしてその仏たちが説いた無数の経々、それら全てが久遠元初の自受用身すなわち日蓮大聖人の垂迹(分身)であり、戒壇の御本尊から生じているのです。だから、これら無数の仏たちの積んだ功徳、無数の経々の功徳は、全て戒壇の大御本尊に帰着するのだと。これあたかも、大きな大木があって、その枝葉は無数に茂っていても、そのすべてが1つの根に収まるのと同じです。なんと凄いことでしょうか。

 ゆえに日寛上人は、この大功徳について、「この本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用あり。故に暫くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるはなく、罪として滅せざるはなく、福として来たらざるはなく、理として顕れざるはなきなり」と御指南くだされています。

 まさしく本門戒壇の大御本尊こそ、日蓮大聖人の出世の御本懐であり、三大秘法の随一であり、末法の下種の正体であり、私たち仏弟子にとっては信行し奉るところの明鏡なのです。

戒壇の大御本尊に通じるお題目を唱えられる有難さ

 いかがだったでしょうか。いま浅井先生のご指導を通して観心本尊抄の「大意」を拝し奉るとき、これほどの大功徳まします本門戒壇の大御本尊に値い奉り、お題目を唱える身となれたことが、どれほど有難いことなのかと、つくづく思います。

 まして、いま創価学会は「弘安2年の御本尊は受持の対象にはしない」との謗言を吐き、戒壇の大御本尊を捨ててしまいました。一方、宗門(日蓮正宗)は、大聖人一期の御遺命たる国立戒壇を捨て、未だに背き続けるゆえに、大聖人の御当体であられる戒壇の大御本尊に背き奉り、かえって入阿鼻獄となっています。宗門のトップ・細井日達が堕地獄の相を現じて死んだ厳然たる事実を直視しなければなりません。

 その中、浅井先生のもと、御遺命たる国立戒壇を一国に高々と掲げて、大聖人仰せのままの信行が叶う顕正会員は、なんと有難い立場でしょうか。だからこそ、私たちが唱えるお題目は戒壇の大御本尊に通じ、大功徳を頂き、みな成仏を遂げさせて頂けるのです。

 浅井先生は、次のように指導くだされています。

 いま顕正会は御遺命を守り奉ったゆえに理不尽な解散処分を受けたが、戒壇の大御本尊に対し奉る恋慕渇仰の信心はいよいよ深く、いよいよ堅い。

 汚濁の宗門の中に、二百万の清浄なる仏弟子の大集団が出現したことは、ただ不思議である。

 これ大聖人様が御守護下された以外には、断じてあり得ない。

 さあ、20年代こそ広布の決戦場である。早く三百万を成し遂げて大聖人様の御馬前に馳せ参じ、次なる御命令を、謹んで全員で聞き奉ろうではないか。

顕正新聞令和元年8月25日号

 いよいよ明年から、広宣流布の決戦場である20年代がはじまります。私も「広告文と遥拝勤行で広宣流布はできる」との先生のご指導のまま、広宣流布を見つめてご奉公に励んでいきたいと思います!