「早瀬日如管長への諫訴」特集号2が出来しました
冨士大石寺顕正会の2月度総幹部会を特集した顕正新聞3月5日号が出来しました。その名も「早瀬日如管長への諫訴」特集号2!
浅井会長は、宗門の早瀬日如管長に対し、五体投地の懺悔と御遺命たる国立戒壇の宣示を重ねて求められましたが、その圧倒的なご気魄と反論の余地なき徹底呵責には五体が震え、〝早瀬管長は早く懺悔して国立戒壇の正義を宣揚すべき!」と思わずにはいられませんでした。
それではさっそく内容を見ていきましょう。
日蓮大聖人の御遺命とは何か
浅井会長は、「まず、御遺命とは何かを改めて示す」として、御遺命の戒壇とは、広宣流布の暁に国家意志の公式表明を以て富士山天生原に建立される国立戒壇であり、御遺命を曲げる以前は宗門・学会ともに国立戒壇だけを唯一の宿願・悲願としてきたことをお示し下さいました。
御付嘱状と三大秘法抄の御金言、歴代上人の御指南、そして宗門・学会の過去の発言をみれば、この事実はまさに太陽のごとく明らかで一点の疑いの余地もなく、かかる大事の御遺命に平然と背いた宗門の罪の重さを改めて感じました。
同時に、学会・宗門が第六天に誑かされ、御遺命の正義を叫べなくなっている現状をみるほどに、いま「日蓮大聖人の御遺命とは何か」という最大事を正しく拝せる顕正会員の立場の有難さを噛みしめました。
宗門が「国立戒壇」の御遺命を捨てた経緯
では宗門は、七百年来叫び続けてきた「国立戒壇」の御遺命を、どうして捨ててしまったのでしょうか。その経緯について会長は、「阿部メモ」と元学会大幹部の証言をもとにつぶさに指導下さいました。
「阿部メモ」とは、池田大作が昭和45年4月14日、宗務院の早瀬総監と阿部教学部長を学会本部に呼びつけ、細井日達に「国立戒壇」の永久放棄を迫る密談をした際、その内容を阿部が克明に記録した自筆メモです。
そこには、次のような生々しいやり取りが記されていました。
池田は言いました。
「国立と云うと追いつめられる恐れがある。(中略)これは違憲になる」
「今迄、猊下は、我々の言ったことを擁護して下さった。それが今度は、もう一歩脱皮せねばならぬ時になった」
「今ここで、永久に国立という内容にするか、しないかが、急所である。永久にしないという決定をいえば収まる」
「猊下よりそう云うお説法があったとして、大日蓮に掲載して頂きたい」
「至急やってもらいたい。明日か、明後日―16日一杯にやって頂きたい。猊下より浅井に『国立をとれよ(除け)』と一言云って頂けばよいと思う」
このように池田は、細井日達に国立戒壇の永久放棄宣言をすること、そして細井日達から浅井先生に対し「国立戒壇を捨てよ」と説得することを要請したのです。
早瀬総監は「充分猊下にお伝えし、申上げる。その上で御返事をする」と。
すると、この日を境に、細井日達は池田の要請どおり動いたのでした。
2日後の4月16日、細井日達は浅井先生に会いに来て、「浅井さん、国立戒壇を捨てて下さい。国立戒壇を言うと、日蓮正宗は潰されるんです」と、国立戒壇放棄を迫りました。
さらに細井日達は、4月22日の「臨時時局懇談会」で国立戒壇否定の説法をし、4月27日の責任役員会で国立戒壇放棄を機関決定し、5月3日の学会本部総会の席上、ついに国立戒壇の永久放棄を宣言したのでした。

次いで浅井会長は、元学会大幹部の証言をもとに、宗門が御遺命を曲げたその内幕を教えて下さいました。
元学会教学部長の原島嵩は、「私自身、かつて池田先生のブレーンの一人として、日蓮正宗の法義の歪曲に加担し」たと告白し、元学会顧問弁護士の山崎正友は、著書「盗聴教団」の中で次のように暴露しています。
「従来、『日本国中に日蓮大聖人の教えが広まり、時の権力者が帰依したとき国家意思によって戒壇を建立する、そのときが広宣流布である』という教義は、日蓮正宗の教義の中で最重要なものであった。(中略)それを根本から変更するのである」
「しかし、妙信講だけは、しつこく宗務院と創価学会にくいさがった」
「正本堂落慶間近の昭和四十七年初頭より、再び妙信講が日蓮正宗宗務院と創価学会に対し、行動を開始したのであった」
「これに対する創価学会側の対応は、宗務院をだきこみ、『正本堂は、事の戒壇である』との教義上の裁定を出させたうえで妙信講を宗外に排除してしまうという作戦に出た」
「本来、日蓮正宗側は、創価学会の数と力にものを言わせる威圧的なやり方や、既成事実を次々とつくって、なしくずしに伝統教義を曲げていくやり方を快く思っていなかった」
「池田大作と創価学会は、必死になって宗務院を固めた。なかば威圧と、理論闘争と、そして、『ここまできて、いまさら正本堂が事の戒壇でない、などと言ったら、正本堂供養金の返還さわぎがおこり、宗門までつぶれてしまう』という脅しで、創価学会への同調を迫った。・・・そして、ついに押し切り、(昭和四十七年)四月二十八日、時の御法主上人より、『正本堂は、一期弘法抄、三大秘法抄の意義をふくむ現時における事の戒壇なり。広宣流布の暁には、本門寺の戒壇堂となるべき大殿堂なり』との訓諭を出させることに成功した」と。
いかがでしょうか。宗門は、自分たちが伝統教義を曲げていることを知っていたのです。知っていながら、池田・学会の脅しに屈し、唯々諾々と国立戒壇を捨てたのです。なんという無道心でしょうか。
一方、学会の謀略担当・山崎正友の手記にはっきりと記された、強大な学会を相手にただお一人御遺命守護に戦われた浅井先生のご勇姿をお伺いしては、大感動がこみ上げました。
阿部日顕こそ「師子身中の虫」
そして、宗門の中でもっとも御遺命破壊に加担した悪僧が、阿部信雄・教学部長、のちの日顕でした。
阿部が書いた「国立戒壇論の誤りについて」と「本門事の戒壇の本義」という二冊の悪書によって、全宗門僧俗の間に、今に至るまで国立戒壇否定の誑惑がまかり通ってしまったのです。
浅井会長は、阿部の正体を次のように喝破されました。
「仏法は外部から壊られることはなく、必ず内部の者が壊るという。その『師子身中の虫』こそ、まさしく阿部教学部長その人である。その罪は極めて重い」と。
しかもこの悪書、阿部ひとりで書いたものではなく、なんと池田大作の指示の下、学会の助力を得て書いた本だったのです。
そのことは、学会から流出した機密文書「妙信講作戦」をみるとわかります。
当時、阿部は、池田大作が「総指揮」をとる作戦のメンバーに組み込まれており、「教義論争」という池田から与えられた役割に従って書いたのが、あの二冊の悪書だったのです。

しかも山崎正友によれば、「国立戒壇論の誤りについて」は、「九割は原島嵩氏以下、特別幹部のメンバー(池田ゴーストライター集団)と、山崎師団の弁護士、検事、修習生らで書いたもの」であり、残りの一割を、山崎らの示唆に従って阿部が書いたというのです。
このように、阿部が池田に諂い、指示されるままに唯々諾々と御遺命破壊の悪書を書いた姿は、あたかもその昔、中国・天台宗の僧の一行阿闍梨が、善無畏三蔵に唆されて法華経誹謗の悪書を書いた姿と瓜二つです。仏法破壊の悪僧の性(さが)は昔も今も異ならず、と思えてなりません。
つまり、阿部が書いた二冊の悪書とは、正本堂を御遺命の戒壇につくり上げようとした学会の言い分をそのまま書いた本にすぎなかったのです。
このことは、阿部自身が後年、二冊の悪書について、「学会からの具申的な勧誘もあり、私がそのように書いてしまった」と吐露していることからも窺われます。
ところが無道心・破廉恥の阿部日顕は、偽戒壇・正本堂が先生の諫暁によって崩壊し、二冊の悪書について「言い過ぎ、はみ出しがあった」などと卑怯な幕引きを図りつつも、「結局、道理から言っても国立戒壇は誤りですから、『国立戒壇論の誤りについて』のなかにおいて、『国立戒壇が間違いだ』と言ったことは正しかった」と、断じて許されざる大謗法の言辞を吐いたのです。
すでに阿部日顕がいう「道理」、つまり「現憲法のもとでは国立戒壇は建てられない」との学会の弁護士・検事グループが考案した詭弁も、「もし一国が日蓮大聖人に帰依し奉る広宣流布が実現したら、憲法改正に誰人が異を唱えよう。まさに憲法改正などは、広布に付随して実現する事柄なのである」と、浅井先生に一刀両断されているにもかかわらず、です。
会長は、「所詮『道理から言っても国立戒壇は誤り』との言葉は、憲法を主、仏法を従とする学会弁護士・検事グループから教え込まれた幼稚な癡論を引きずった、天魔その身に入った売僧の魔言である」と喝破されています。
宗門が「国立戒壇が正しかった」といえない理由
ところが、この学会の言い分をそのまま書いた二冊の悪書による「国立戒壇」の否定を、阿部が「正しかった」と最後まで言い張ったために、哀れな宗門(日蓮正宗)僧俗は、未だに二冊の悪書を「猊下様が書いた素晴らしい本」と思い込み、その口まねをして国立戒壇を誹謗し続けているのです。どこまで愚かしく、無智蒙昧なのでしょうか。
また、たとえ「国立戒壇が正しかった」と心の中で思ったとしても、それを言えない理由が宗門にはあります。
浅井会長は、「これ学会の圧力に屈して、すでに公式に『国立戒壇』を放棄しており、さらにその公式決定に違反したとの理由で御遺命を死守された浅井先生が率いられる顕正会を理不尽にも解散処分に付した経緯があるから、今さら『国立戒壇が正しかった』などとは口が裂けても言えず、だからどうしても国立戒壇だけは否定せざるを得ないのである」と、阿部日顕の心の奥まで見透かされ、その度し難いまでの無慚無愧・破廉恥・卑劣を喝破されました。
そもそも「国立戒壇は御書にない」や「国立戒壇は田中智学が言い出した」などの数々のたばかりの目的と本質は、偽戒壇・正本堂を御遺命の戒壇とするための〝屁理屈〟にすぎません。
ですから、その誑惑の「大陣」たる正本堂が先生の諫暁によって崩壊した以上、それに付随するすべてのたばかりは全く意味をなさなくなります。
ところが、現在の宗門は、その残滓に必死にしがみつき、御遺命の国立戒壇を激しく怨嫉し、大聖人様への忠誠を貫かれた浅井先生を口をきわめて誹謗しているのです。
会長は、「そのさまは、『酔えるが如く、狂えるが如し』(顕立正意抄)である。〝どこまで愚かしく、どこまで腐り切っているのか〟と言いたい。これすべて、いささかの懺悔なき謗法闡提・阿部日顕の誑惑による」と痛烈に叱責されました。
かくして阿部日顕は、ついに令和元年9月20日に死亡して入阿鼻獄となり、宗門から永久に追放されたのでした。
早瀬管長は天魔の呪縛を打ち破るべし
最後に浅井会長は、早瀬日如管長に対し、次のように直諫されました。
兄弟抄の仰せに云わく「前車のくつがへすは後車のいましめぞかし」と。
早瀬管長は、池田大作にへつらい大事の御遺命を破壊した細井日達・阿部日顕の大罪と厳しきその大罰を見て自身の誡めにしなければいけない。そして自らの与同の大罪を深く思い、真の懺悔をなすべきであります。・・・
早瀬管長は〝今さら訂正したら宗門の沽券にかかわる〟と考えているかもしれない。
しかし、近き将来、国立戒壇堅持の正しき貫首上人がお出になれば、御遺命破壊の第六十六世・細井日達、第六十七世・阿部日顕の二代の悪貫首は御歴代から除歴されるに違いない。このままでは早瀬管長も同様となる。
いまこそ最後の御奉公として、五体を地に投げ、大聖人様にお詫びし、「国立戒壇建立こそ御本仏一期の御遺命である」と正義を宣示し、半世紀余りも正系門家を覆い尽くしてきた天魔の呪縛を打ち破り、宗門を日淳上人の清らかな昔に立ち還らせるべきであります。
それがなされない以上、宗門はますます凋落の一途を辿ること、必定であります。・・・
早瀬管長は後生を恐れなければいけない。
何より正系門家がこのような為体では、日本の国が保たない。
ゆえに私は浅井先生の弟子として、このことを重ねて早瀬管長に訴えるものであります。
「早瀬日如管長への諫訴」特集号2
いかがでしょうか。まさに会長は早瀬管長に対し、御遺命違背の悪貫首として「除歴」され入阿鼻獄となるか、半世紀余りも宗門を覆った天魔の呪縛を打ち破り清浄なる宗門に立ち還らせる「最後の御奉公」をするか、究極の二者択一を迫られたのです。
そのうえで会長は叫ばれました。
早瀬管長がこの直諫を用いるか否かは知らぬ。ただ顕正会は諸天を動かす大折伏に邁進し、謹んで大聖人様の御裁断を仰ぎ奉るのみである。
「早瀬日如管長への諫訴」特集号2
たとえ早瀬管長が聞こうと聞くまいと、「すべては大聖人様の御裁断によって必ずなる」との鉄石のご確信と、諸天を動かす大折伏でそれを事実にせんとの凄まじいご気魄に、大地にめり込む思いとなりました。
私もこの大事な御奉公に連なれる宿縁に歓喜し、広告文と特集号を手に、会長の願われる「諸天を動かす大折伏」のお手伝いに精一杯励んでいきたいと思います!