仏法の実践:折伏

「折伏」って何ですか?

 「折伏」(しゃくぶく)というのは、仏法を弘める方法の1つです。顕正会員なら、誰でも知っている言葉ですよね。

 ところがネットを見ると、よく誤解や悪意に基づく間違った情報を目にすることがあります。おもしろ半分で冷やかしたり、一部の人たちの言動をことさら誇張したりする悪質なサイトもあります。これは、まじめに信心している私たち顕正会員にとっては、とても残念なことです。

 そこで、今回の記事では、現役の顕正会員の立場から、「折伏」についての正しい情報をお伝えしたいと思います。

仏法の弘め方は2つある!

 実は仏法の弘め方は1つだけではありません。大きく分けると、2つあると言われています。それが「摂受」(しょうじゅ)と「折伏」(しゃくぶく)です。

 「摂受」とは、摂引容受(しょういんようじゅ)といって、たとえ相手が低劣な法を信じていても、これを容認しつつ次第に正しい教えに誘引していく柔らかい弘教法です。

 「まあ、○○経もいいけどさ、法華経も素晴らしいんだよ?」と言って正しい教えに導いていくイメージでしょうか。

 一方、「折伏」とは、破折屈服(はしゃくくっぷく)の義で、相手の間違った思想・信仰を破折し、唯一の正法に帰依せしめる剛い弘教法です。

 これは「一切の邪法を捨てて、南無妙法蓮華経と唱えましょう」と教えてあげることですね。

末法は「折伏」の時なんです

 こう書くと、争いを好まない普通の日本人の多くは、「それなら、摂受のほうがカドが立たないし、折伏よりいいんじゃない?」と思われるかもしれません。

 ところが仏法では、いかなる時に摂受を行じ、いかなる時に折伏を行ずべきかがキチンと決まっているのです。どっちでもいいわけじゃないんですね(笑)

 具体的には、釈迦仏法(インドの釈迦仏が説いた仏法)の利益の及ぶ正像2000年間(釈迦仏滅後2000年の間)は摂受であり、それ以降の末法は折伏でなければならない、とされています。

 なぜかというと、正像2000年の衆生は「本已有善」(「本すでに善あり」の意)といって、過去世にすでに下種を受けているので、あるいは小乗経を縁とし、あるいは権大乗経を縁として法華経の悟りに入ることができました。そのため、種々の教えを一応は認め、次第に法華経に誘引する摂受が、正像の時機には適していたのです。

 しかし、正像2000年を過ぎて末法になると、衆生は「本未有善」(「本未だ善あらず」の意)で、未だ下種を受けたことのない三毒強盛の荒凡夫ばかりとなります。この本未有善の衆生にとって成仏の叶う大法は下種の南無妙法蓮華経以外にありません。そのため、「一切の邪法を捨てて、南無妙法蓮華経と唱えましょう」と勧める折伏が、末法の時機に適しているのです。

 このように折伏こそ、末法の時に適う仏道修行であり、人を救う最高の慈悲の行為なのです。

歓喜の心で讃嘆することが「折伏」の基本です

 「でもさ、折伏って『破折屈服』の義なんでしょ?相手を屈服させるみたいで、すごく強引なイメージがあるんだけど・・・」と思われたそこのあなた!

・・・お気持ちはわかりますが、決してそうではないのでご安心ください(笑)

 「折伏」といっても、別に相手を論破したり、屈服させたりすることを意味するわけではありません。相手の幸せを願って、日蓮大聖人の大恩徳、御本尊の功徳を諄々と教えていくのが折伏の基本です

 ですから、浅井先生は基礎教学書において次のように指導くだされています。

折伏は「讃嘆行」ともいわれる。日蓮大聖人の絶大威徳・大慈大悲を、御本尊の功徳を、歓喜の心で讃嘆すること自体が、相手の心を動かす折伏となっているのである。

 折伏は、仏様の使いとして一切大衆を救う行為であるから、何よりも御本尊絶対の確信と、慈悲の思いに立たなくてはならない。そして「この人も御本尊を信ずれば必ず幸せになれる」との慈悲の思いをこめて、柔和に諄々と御本尊の功徳を説き聞かせていこう。

 これが顕正会の折伏です。

 ちなみに、昔、創価学会が盛んに折伏をしていた頃、あまりにも強引な勧誘をされて辟易した方がいるかもしれません。しかし、先にみた浅井先生のご指導のように、顕正会員の折伏はそれとは全く違いますので、ご安心ください(笑)

他宗教の批判は良くない?

 また、よく耳にするのが、「たしかに日蓮大聖人の仏法が素晴らしいのはわかるけど、他宗教の批判をするのは良くないんじゃないか?憲法で信教の自由も保障されているし、どの宗教をやるかは人それぞれ自由だろう?どの宗教も、みんなそれぞれ良いところがあるはずだよ」という声です。

 これはごく一般的な知識人が抱く、もっとも素朴なギモンではないでしょうか。

 このギモンに正確に答えるには、次の3つの事柄にわけて考える必要があると思います。

① 宗教には正邪・優劣があり、個人の幸・不幸に直結すること

② 改宗を強要することはできないこと

③ ある宗教に良い考え方が含まれているか否かと、それを信仰することで幸せになれるか否かとは、別次元の問題であること

 それでは順番に見ていきましょう。

宗教には正邪・優劣があり、個人の幸・不幸に直結する

 よく「宗教はどれも同じ」と言う人がいます。しかし、決してそうではありません。宗教には厳然と正邪・優劣があるのです。

 では、宗教の正邪・優劣は、何によって判断するのでしょうか。「ウチの宗教が正しい!」と感情に任せて主張するだけでは、何の意味もありません。

 そこに、日蓮大聖人は、「三証」と「五綱判」という極めて精緻な宗教批判の原理を御教示くださいました。この鏡に照らしたとき、一切の思想・宗教の位置は明確となり、末法の一切衆生を現当二世にお救い下さる大法は、ただ日蓮大聖人の仏法だけであることがよくわかります。

 そして、大事なことは、この宗教の正邪・優劣が、人の幸・不幸を決する根本原因だということです。

 わかりやすい例でいえば、あの「オウム真理教」が挙げられます。あれを宗教と呼べるかどうかは議論もありえますが、もしあの教えを真剣に信仰していったとしたら、その人の人生はほぼ間違いなくメチャメチャになるでしょう。これはオウム真理教が間違った宗教(つまり邪教)だからです。そして、このことは、程度の差こそあれ、すべての思想・宗教に当てはまるのです。

 もし単なる「趣味」のように、何をやっても幸・不幸に直結しないような事柄であれば、相手が好き好んでやっているものにあえて口出しする必要はないでしょう。しかし、間違った宗教を信仰すれば、その人は遅かれ早かれ不幸を招いてしまいます。もし一分の慈悲あるならば、どうしてそれを捨て置けるでしょうか。

 そこに、日蓮大聖人が身命に及ぶ大難を耐え忍ばれて一国を折伏あそばされた御心があられます。つまり、一切衆生を救わんとの大慈大悲のゆえに、大難をご覚悟の上で折伏をあそばされたのです。

 「今日蓮は、去ぬる建長五年四月二十八日より今弘安三年十二月にいたるまで二十八年が間又他事なし。只妙法蓮華経の七字五字を、日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計りなり。此れ即ち母の赤子の口に乳を入れんとはげむ慈悲なり」(諫暁八幡抄)と。これが大聖人の大慈大悲の御心です。

 このように、宗教には厳然と正邪・優劣があり、間違った教えを信仰することは不幸を招くゆえに、顕正会員は、相手の幸せを願って折伏を行じているのです。つまり、単なる感情に任せた他宗批判ではないということです。

改宗を強要することはできない

 宗教に正邪・優劣があるといっても、折伏の際に、相手に改宗を強要することはできません。私たちはあくまでも大聖人の大恩徳、御本尊の功徳を教え、正しい信仰を勧めるだけで、それを信じて実践するかどうかは相手の自由です。

 浅井先生は、折伏の心構えについて、次のように指導くだされています。

 折伏には徒労(むだ)ということがない。相手が素直に入信すればこれほどの喜びはないが、たとえ反対しようとも、逆縁下種といって、相手の生命にはすでに仏種が下されたことになる。よって必ず将来、信心にめざめて成仏するのである。

基礎教学書・第5章より

ある宗教に良い考え方が含まれているか否かと、それを信仰することで幸せになれるか否かとは、別次元の問題である

 どの宗教も、それなりにご立派なことを言うものです。「人権」、「平和」、「平等」、「友愛」、「孝養」などなど・・・。本当にいろいろありますよね。

 しかし、その宗教を信仰して幸せになれるかというと、それはまた別問題です。何より、一生成仏が叶う教えは、日蓮大聖人の仏法以外にありません。

 世間では相当な知識人と思われている人たちも、こと宗教に関しては全く無智で、曖昧な常識や好悪の感情だけで判断しているのが実情です。これは、宗教の正邪が個人の幸・不幸、さらには国家の興亡盛衰を決する根本であることを知らず、また、正しい宗教批判の原理を知らないからです。

 詳しくは別の機会に書きたいと思いますが、宗教の正邪・優劣を判定する客観的な基準があるのです。それが先に触れた「三証」と「五綱判」です。

 この宗教批判の観点からみれば、日蓮大聖人が顕された三大秘法こそ、成仏を得る唯一の正法といえるのです。

 宇宙の永遠からみたとき、数十年の人生は光の点滅のように儚いものです。その儚く短い人生において、何が一番大事かといえば、永遠に崩れぬ無上の幸福境界である「成仏」を得させて頂くことです。

 このことがわかれば、たとえ世間的に耳触りの良いことを多少説いていたとしても、もしそれが邪教であるならば、決して信仰すべきではありません。成仏が叶わないばかりか、かえって不幸の原因となるからです。

 現当二世(現世と来世)にわたる大利益を得させて頂ける大法は、日蓮大聖人の仏法以外にないのです(詳しくはこちら(現当二世の大利益)をご覧ください)。

どうして折伏をするのか?

 ここまでお読み頂いた方の中には、「ふーん、なるほど。顕正会員は、相手の幸せを願って折伏をしているんだね。でも、本当にそれだけなの?どうしてあんなに一生懸命に頑張れるのかな?」と不思議に思われた方がいるかもしれません。

 その理由は、ズバリ2つあります。

 浅井先生のご指導を拝してみましょう。

 折伏は何のために行ずるのかといえば、一には一切衆生を救う広宣流布のため、二には自身の成仏のためである。

 大聖人の究極の大願は広宣流布にあられる。

 「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり。未来も又しかるべし、是れあに地涌の義に非ずや。剰(あまつさ)へ広宣流布の時は、日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」(諸法実相抄)と。

 大聖人がただ御一人唱え始められた南無妙法蓮華経は次第に唱え伝えられ、ついには日本一同に唱える広宣流布の時が必ず来るとの御断言である。いま我々の行ずる折伏は、大聖人のこの広布の大願を、御本仏の眷属・地湧の菩薩としてお手伝いするものである

 広宣流布が達成されれば仏国が実現し、個人も国家も真の安泰を得る。・・・いま広布前夜の日本を見るに、日本一同に三大秘法に背くゆえに、亡国の先兆たる観測史上最大の巨大地震はすでに起こり、他国侵逼も刻々と迫りつつある。仏弟子として誰か折伏に奮い立たぬ者があろうか。

 折伏は人のため国のためのように見えるが、実は自分自身の成仏の修行である。・・・謗法充満の国土においてもし折伏を行じなければ、知らず知らずのうちに自身が一国の謗法に同化してしまう。これを「与同罪」という。・・・しかし折伏を行ずれば、この与同罪を免れることができる。そして蓮華が泥水の中でも清らかな花を咲かせるように、謗法充満の国土においても少しも謗法に染まることなく、清浄な仏果、一生成仏を得ることができるのである

基礎教学書・第5章より

 いかがでしょうか。

 顕正会員は、日蓮大聖人の弟子として、その大願である広宣流布をお手伝いしたいとの思いから折伏をしているのです。広宣流布が達成されたとき、はじめて日本は仏国となり、個人も国家も真の安泰を得るからです(詳しくは、こちら(日蓮大聖人の御遺命)をご覧ください)。

 また、折伏は、自分自身の成仏の修行でもあります。大聖人の大恩徳、御本尊の功徳を讃嘆させて頂くことは、それ自体、とても楽しく有難いことなのですが、さらにそれが自身の功徳と成仏に繋がっているのですから、なおさら大歓喜なのです。

大聖人の御心のままに折伏を行じている団体は顕正会以外にない

 ところでこの折伏、実は創価学会も宗門(日蓮正宗)も、いまほとんどできなくなってしまったのです。これは、両者ともに大聖人の御遺命である「国立戒壇」を捨ててしまったからです(詳しくはこちらの記事をご覧ください)。

 ことに学会は、大聖人出世の御本懐たる「本門戒壇の大御本尊」を「受持の対象にしない」と捨ててしまいました。根本の本尊を捨て、唯一の大目的を放棄してしまった創価学会に、もはや存在価値はありません。だからいま、仏道修行と関係のない選挙活動ばかりになってしまったのです。

 一方、宗門の職業坊主や墓檀家の法華講員たちに、折伏の気概など毛頭ありません。ですから、ダイヤモンド誌にも、宗門末寺住職の証言に基づき、「懸命に布教を行っても信者数が大きく増えることは期待できない中、『今後、多くの末寺が危機的な状況に陥るだろう』という懸念が広がっている」(2018年3月24日号)などと指摘されてしまうのです。

 まあ、せいぜい職業坊主に唆された法華講員が、ネット上で顕正会に対する下らない誹謗中傷をせっせとやっている程度でしょうか。「その労力を、自分の友人・知人への折伏に充てれば良いのでは?」と素朴に思うのですが、まあ、勇気と確信がないからできないのでしょう(笑)

 いま日蓮大聖人の御心のままに、広宣流布・国立戒壇建立を見つめて折伏を行じている団体は、浅井先生ご統率の顕正会以外にないのです。