宗門僧俗から「神通力などない凡夫」呼ばわりされる阿部日顕

「宗門の御遺命違背」に対する5つの糾弾

 顕正新聞令和3年2月5日号に、おもしろい記事を見つけました。

 藤村副教学部長が書いた「『宗門の御遺命違背』に対する5つの糾弾」という記事で、どうやら「慧妙」という新聞に掲載された顕正会対策の記事を破折したもののようです。

 私がいちばん笑ったのは、「慧妙」が阿部日顕の御遺命違背をゴマかすために、なんと阿部日顕を「神通力などない凡夫」呼ばわりしていることでした(興味のある方は、下の「糾弾⑤」をご覧ください)。

 「あれ、宗門僧俗がそんなこと言っていいのかな・・・?」と驚いたのですが、きっと反論に必死で気づかなかったんでしょうね(笑)

 記事の冒頭には、次のように書かれています。

「顕正会対策マニュアル」のような「慧妙」

 妙観講(講頭・大草一男)が編集しているといわれる宗門の謀略紙「慧妙」令和3年1月16日号に、大草一党の断末魔のような記事が掲載されていた。

 タイトルは「法論の現場ですぐに使える!5つの論難と破折」「これが顕正会の言い掛かりの手口だ」、冒頭には「うっかり術中に嵌められぬように御注意」とか、「うっかり彼らの口車に乗せられて術中に嵌まると、議論に詰まってしまうことがあるので、用心が必要である」などと書いてある。なんとも赤裸々である。

 このような「顕正会対策マニュアル」のごとき痴文を、わざわざ第1面から2面にかけて掲載せざるを得ぬところに、大草一党の苦境が垣間見える。顕正会教学部に糾弾され、しばしば「議論に詰まってしまう」大草一党にとっては、なるほど、必要・緊急の企画だったのであろう。(中略)

 さて、問題の「マニュアル」であるが、これまた極めて杜撰な代物であった。彼らが「顕正会の疑難」として挙げる内容は、いずれも御遺命違背の糾弾に使えるものばかりである。一方、彼らが「破折」と称するものは、反論にもならない弁明を書き連ねただけの痴論であった。

 よって、本稿では、「宗門の御遺命違背」に対する「5つの糾弾」を紹介するとともに、併せて「慧妙」の痴論を破折する。

顕正新聞令和3年2月5日号

 いかがでしょうか。宗門は未だに御遺命違背の大罪を改悔せず、つまらない言いわけをしているなんて、ほんとうに信心がないですね。

 このブログでは、記事の中からいくつかの破折を取り上げて紹介したいと思います。

糾弾①

 まず「慧妙」は、「顕正会の疑難①」として、次のように書いている。

 〝宗門において、正本堂を御遺命の戒壇であると言っていた事実があったら、宗門が御遺命に違背していたことを認めるか

 これはまっとうな指摘である。宗門は、池田大作にへつらって、偽戒壇・正本堂を御遺命の戒壇であると断定・讃嘆していた。その御遺命違背を糾弾するものである。

 これに対し、「慧妙」は次のように弁明している。

 「昭和四十年代の初め、当時の創価学会による爆発的教線拡大を受けて、宗内には『このまま行けば、ごく近い将来、広宣流布が達成できるのではないか』との期待が高まっていた。その期待を背景に、『広宣流布が達成されれば、いま建設中の正本堂が『三大秘法抄』『一期弘法付嘱書』にお示しの本門事の戒壇となる』との記述や発言があった」、「それは、まだ来ぬ未来に対する期待に過ぎないのだから、御遺命を破壊したことになどならない」と。

 要するに、「当時は正本堂が完成するまでに広宣流布が達成するかもしれないとの期待があり、そうなれば正本堂は御遺命の戒壇となるから、そのように述べただけで、御遺命違背ではない」と言いたいらしい。

 では、はたして正本堂は「御遺命の戒壇」になり得たのか。

 御遺命の本門戒壇がいかなるものかは、大聖人様が三大秘法抄に明確にお定め下されている。すなわち、王仏冥合し、王臣一同が三大秘法を受持する広宣流布の時、仏法守護の国家意志の表明たる「勅宣・御教書」を申し下して建立される戒壇である(以下、端的に「国立戒壇」という)。

 かかる御金言に照らせば、仮に昭和47年までに広宣流布が達成されたとしても、国家意志の表明もなく宗門だけで建てた正本堂は、およそ御遺命の戒壇にはなり得ない。したがって、かかる偽戒壇を「御遺命の戒壇」と断定した宗門高僧らの発言は、御遺命に背き奉るものというほかない。

 また〝当時は正本堂が完成するまでに広宣流布が達成するかもしれないとの期待があった〟というのも詭弁である。高僧らが諛言を述べた昭和42年当時、正本堂の完成(昭和47年)までに広宣流布が達成される見込みはなく、学会・宗門にその予定もなかった。

 では、昭和42年当時、なぜ宗門高僧らが挙って正本堂を「御遺命の戒壇」と断定・讃嘆したかといえば、強大な権力と金力を持つ創価学会・池田大作にへつらったからにほかならない。後年、阿部日顕は次のように告白している。

 「その当時は、私達もそのような空気の中に巻き込まれてしまって、たしかに私も藤本総監も、ズバリとは言っていないが、それに近いようなことを実際に言っており、『大日蓮』にきちんと残っている。今、それは大いに反省しております。しかし、その時はそのような空気が宗門を巻き込んでいった。その一番元は池田大作名誉会長が、大聖人の御遺命の達成であるという意味で、正本堂を『三大秘法抄』の戒壇であると指名したことであります」と(平成3年1月10日・全国教師指導会)。

 〝池田大作が正本堂を御遺命の戒壇と『指名』したから、つい我々も同じようなことを言ってしまった〟と認めているではないか。

 御遺命違背の大罪を池田のせいにする無道心、これが宗門の禿人どもの実態である。

顕正新聞令和3年2月5日号

糾弾②

 次に「顕正会の疑難②」として、次のように書いている。

 〝もし、宗門の公式の出版物等において、「正本堂が御遺命の戒壇である」という発言があったらどうする

 これもまっとうな指摘である。宗門高僧らの御遺命違背の発言が、単なる一僧侶の問題ではなく、宗門として認め、公表していた事実を糾弾するものである。

 これに対する「慧妙」の弁明は、いかにもお粗末であった。

 「日蓮正宗における公式決定は『訓諭』であり、昭和四十七年四月二十八日の日達上人の『訓諭』には『(中略)』云々として、正本堂を直ちに御遺命の戒壇とはされなかったのである。この『訓諭』以降に、宗門で、正本堂を直ちに御遺命の戒壇である、とした発言や記述があったら出してみよ。出せまい」と。

 つまり、「宗門の公式決定は訓諭であるが、訓諭では正本堂を御遺命の戒壇と断定していないし、それ以降には正本堂を御遺命の戒壇とする発言等はない(はずだ)から、別にいいんだ」と言いたいようだ。

 これは論点のすり替えである。「訓諭」如何に関わらず、それ以前の昭和42年当時、宗門高僧らが正本堂を「御遺命の戒壇」と断定・讃嘆していた事実や、それを宗門が公式の出版物等に掲載し公表していた事実に変わりはない。よって、宗門は昭和42年当時、すでに大聖人の御遺命に違背していたのである。無道心の宗門僧俗は、深き懺悔とともにまずこの事実を認めよ。

 また「慧妙」は、あたかも「訓諭」が正しいものであったかのように書いてるが、これも誤りである。

 細井日達の「訓諭」は、正本堂の意義につき、「一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」と定めている。これは、正本堂を「御遺命の戒壇となる建物」と断定したものにほかならない。

 しかし、未だ広宣流布も達成していない段階で、「御遺命の戒壇となる建物」を建ててしまうこと自体が、三大秘法抄に定められた時・手続を無視し、「時を待つべきのみ」の御制誡に背く御遺命違背なのである。

 これに対し、宗門僧俗らは、己の非を匿さんと、次のような詭弁を弄する。「訓諭の『たるべき』とは不定の意味で、正本堂が御遺命の戒壇になるとは断定していない。将来、御遺命の戒壇になるかもしれないし、ならないかもしれないという意味だ」と。

 しかし、かかる詭弁が成り立たないことは、当時教学部長だった阿部日顕が、細井日達の承認のもと、「訓諭」の意味につき、「当然、大石寺の正本堂が広宣流布の時に三秘抄、一期弘法抄の戒壇となる」と断定する宗務院の公式見解を発表していたことからも明らかである。

 このように、宗門は「訓諭」以前のみならず、公式決定たる「訓諭」においても御本仏の御遺命に背き奉ったのである。まさに師敵対の逆徒というほかない。

顕正新聞令和3年2月5日号

糾弾⑤

 次に「顕正会の疑難⑤」について。

 〝阿部日顕も「近現代における戒壇問題の経緯と真義」の中で、「今から見れば言い過ぎやはみ出しがある」と、当時の誤りを認めているではないか

 これは、阿部日顕が、「国立戒壇論の誤りについて」と「本門事の戒壇の本義」という2冊の悪書において、「戒壇の建物は広布完成前に建ててよい」とか「正本堂が広布時の戒壇の建物である」と書いたことにつき、後年、「言い過ぎやはみ出しがある」と認めた発言である。このように、阿部日顕自身が当時の誤りを認めている事実を突きつけ、もって阿部日顕の御遺命違背を糾弾するものである。

 これに対する「慧妙」の弁明は、いかにも苦しい。

 「日顕上人は、『今から見れば言い過ぎやはみ出しがあった』と仰せであるが、それは文字通り『今から見れば』であって、昭和四十七年当時の情勢において見れば、いまだ広宣流布達成には至らずとも、ごく近い将来に広宣流布が達成され、正本堂も御遺命の戒壇になる、と思われる状況だったのである」、「このようなことは、神通力などない凡夫の世界では当然ありうることで、謗法でもなければ、違背でも、逸脱でもない」と。

 要するに、「昭和47年当時には、ごく近い将来に広宣流布が達成されて正本堂が御遺命の戒壇になると思われる状況だったから、神通力などない凡夫である阿部日顕が『正本堂が将来的に御遺命の戒壇になる』と言ったとしても、謗法でも、違背でも、逸脱でもない」という。

 これも言い訳になっていない。前述のとおり、未だ広宣流布も達成していない段階で「御遺命の戒壇となる建物」を建ててしまうこと自体が、三大秘法抄に定められた時・手続を無視し、「時を待つべきのみ」の御制誡に背く御遺命違背なのである。このことは、阿部日顕が「神通力などない凡夫」であろうがなかろうが関係ない。なお、阿部日顕が当時、「当然、大石寺の正本堂が広宣流布の暁に三秘抄、一期弘法抄の戒壇となる」と断定していたことは前述した。

 この明らかな御遺命違背、しかも阿部日顕すら「言い過ぎやはみ出しがある」と認める発言を、「謗法でもなければ、違背でも、逸脱でもない」と言い張るあたりが、いかにも大草一党らしい。

顕正新聞令和3年2月5日号

「神通力などない凡夫」だから仕方ない?

 いかがでしょうか。どれもつまらない言いわけばかりで呆れてしまいますね。

 中でも、阿部日顕が2冊の悪書を書いて御遺命に背いたことについて、「このようなことは、神通力などない凡夫の世界では当然ありうることで、謗法でもなければ、違背でも、逸脱でもない」といって、阿部日顕を「神通力などない凡夫」呼ばわりしているのには思わず笑ってしまいました。これを早瀬管長が黙認しているのも不思議です。

 もちろん、私たち顕正会員は、阿部日顕が「神通力などない凡夫」であることは百も承知なのですが、それを宗門僧俗が言ってしまうのですから驚きです。

 だって、法華講員たちは、この阿部日顕(登座前は「信雄」)の「実は・・・、私が御相承を受けていたんだ・・・」という自己申告だけを信じて、彼を法主とあがめ、信伏随従してきたわけですよね?そんな彼の正体は、何を隠そう、実はただの「神通力などない凡夫」だったのです。いやはや、なんとも哀れですね。

 また、記事で破折されているとおり、阿部日顕が「神通力などない凡夫」であろうとなかろうと、偽戒壇である正本堂を「御遺命の戒壇になるんだ」と言ってしまえば、それは大聖人の御遺命に背く師敵対になってしまいます。「『神通力などない凡夫』だから仕方ない」なんて言いわけは通用しません。

 宗門は御遺命違背の大罪を深く懺悔し、早く日淳上人の頃の国立戒壇堅持の清らかな宗門に立ち還らなければいけません。